波照間、552人マラリア犠牲に 本田昭正さん 島の戦争(10)<読者と刻む沖縄戦>


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「忘勿石之碑」に向かい鎮魂歌をささげる八重山戦争マラリア遺族会の役員=2019年9月

 本田昭正さん(86)=浦添市=ら波照間住民を苦しめたマラリアが収束したのは1949年のことです。

 《八重山が米軍の軍政下に入り、軍船に食料やマラリアの特効薬など救援物資を積んで救援が行われた。無政府状態だった八重山も米軍政下で八重山支庁が組織され、援助が継続して行われるようになった。

 島の復興のため「復興委員会」が結成され、仲本信幸を委員長に、村ごとに衛生班と食料班が組織された。衛生班は特効薬アテプリンの配布と蚊の防除のDDT散布、食料班は甘藷の栽培促進などに取り組んだ。》

 日本軍の軍命によるマラリア有病地への住民疎開は石垣島でもありました。八重山地域全体で3647人がマラリアで亡くなりました。波照間島では1670人ほどの住民のうち児童66人を含む552人がマラリアの犠牲になりました。1984年に「学童慰霊碑」、92年に「忘勿石之碑」が建てられました。

 波照間小学校沿革誌はこう記します。

 「避難中マラリア罹患者数百名死亡者約七十名ヲ出セリ 帰島後、部落民ハ食無ク看病人ナクテ死亡者続出シ、数百人ヲ死亡セシメ児童モマラリアノ為六十六名死亡セリ」

 忘れてはならない沖縄戦の犠牲です。

 (本田昭正さんの体験記は今回で終わります。次回から根保幸徳さんの体験記です)