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揺るぎない沖縄愛、究め続けた芸の道 人間国宝・照喜名朝一さん(1)<復帰半世紀 私と沖縄>


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
三線を手に琉球古典音楽への思いなどを語る照喜名朝一さん=那覇市の琉球古典音楽安冨祖流絃聲会照喜名朝一研究所(喜瀨守昭撮影)

  2019年4月、音楽の殿堂・米ニューヨーク市のカーネギーホール。三線の音色に乗って響き渡る深い歌声に、その場にいる誰もが聞き入った。

 「琉球古典音楽」人間国宝の照喜名朝一(89)の米寿を記念して行われた公演。県費留学生として沖縄を訪れた際に朝一の指導を受けた弟子が中心となって企画し、米国や沖縄、日本各地の門下生らが出演した。

 ヤマトの世からアメリカ世、アメリカ世からヤマトの世に替わっても、ウチナーンチュであることを誇りに琉球古典芸能を世界に広め、未来の芸能の担い手を育てた照喜名朝一の思いが結実した瞬間だった。

 朝一は、知念村(現在の南城市)知名の板馬(いちゃんま)に、9人きょうだいの7番目、男兄弟では末っ子に生まれた。照喜名門中(もんちゅう=同じ先祖を持つ父系の一族関係)の祖先には、琉球王国時代、国王にも重用された琉球古典音楽の大家・聞覚(もんがく)こと照喜名名仙(1682~1753年)がいる。

 家には家宝の三線が飾られ、父・名厚も知名の伝統行事「ヌーバレー」の地謡を務めるなど歌三線をたしなんだ。朝一も自然と、三線に心が引かれた。父や兄の弾く姿をまね、ときに自己流の工工四を作成して力を付け、地域の行事で地謡を任うようになった。

 知念尋常高等小学校(1941年4月から45年までは国民学校)へは家から約1時間かけて通った。「米がなく、芋が大事にされた時代で、弁当にもふかした芋を持っていった。途中のワンジン原坂が、当時はとても急な坂道に感じられた」

1935年の照喜名家の写真。最前列右端で祖母のウトの膝に乗るのが照喜名朝一さん。父の名厚(後列左から4人目)や母のマカト(前列左から4人目)、きょうだいらと

 知念国民学校6年生で沖縄戦を経験した。兄と祖母を亡くし、海野や伊原、久手堅といった地域の避難壕を転々とした。米軍に保護され、本島北部の収容所から板馬へ戻るとき、佐敷村の丘陵地には米軍の住宅施設「バックナービル」が広がり、朝一のふるさと知念村にも米兵が出入りしていた。

 人懐っこい朝一は、下水道工事のために村を訪れる米兵たちと親しくなった。「サンキュー」などと言葉を交わしながら、一つ一つ英語を覚えていった。「復帰前の時代は解放感があった。ウチナーンチュも米国人も気持ちさえ通じれば、みんな平等で友達だ。英語が使えるようになったら、よりその思いが強くなった」

 後にその英語力を買われノースウエスト航空へ入社、沖縄の日本復帰と共に「那覇エアポートサービス」を立ち上げるなど実業家の一面も持つ朝一。師・宮里春行との運命的な出会いをきっかけに琉球古典音楽の道を究め続け、2000年には「人間国宝」に認定された。
 
 「ウチナーンチュに生まれて幸せ」と言い切る89歳の人間国宝。柔軟な感性で時代や環境の変化に対応しながらも、揺るぎない沖縄愛で伝統文化を体現し続ける。

(文中敬称略) (藤村謙吾)


 1972年に沖縄が日本に復帰してから来年で半世紀。世替わりを沖縄と共に生きた著名人に迫る企画。今回は「琉球古典音楽」人間国宝の照喜名朝一さんの半生を追う。

▼(その2)航空会社と2つの道を…世界中にまいた歌三線の種へ続く