1945年10月ごろから、沖縄戦の戦火を逃れて本島北部に避難していた南部住民の帰村が始まった。照喜名朝一(89)もふるさとの知念村へ戻り、仕事を探した。
親兄弟が船を持っていたため、漁師になることも考えたが、船酔いする体質だったことから諦めた。村を訪れる米兵から習うともなしに英語を学んでいたこともあり、周囲の勧めで15歳になったころには軍作業員に登録し、米軍関係の施設で働き始めた。
最初は佐敷村の米軍住宅施設「バックナービル」で軍人の宿舎の手入れをするハウスボーイとして働き、水道部に移ってからは給水タンクの消毒作業にも従事した。基地内の宿舎で寝起きし、夜になると空き缶で作られたカンカラ三線を弾く。米兵もカンカラ三線を「沖縄バンジョー」と呼び、朝一の演奏を楽しんだ。
■沖縄人従業員の第1号に
電信電話局で配線技師として働いていた19歳のとき、同局班長で飛行機の整備士でもあったアーマー・ミラーに、「エアライン(航空会社)に入らないか」と声を掛けられた。沖縄戦後、那覇飛行場(現在の那覇空港)で国際線を就航させたノースウエスト航空への誘いだった。
これに朝一は快諾した。採用は20歳からだったため、米国マイアミで訓練を受け、翌52年に沖縄人のノースウエスト従業員第1号になった。
県内の公務員の平均月給が45ドル前後の時代に、ノースウエストの月給は90ドルもあり、朝一はしばしば村でも屈指の高額納税者になった。「ノースウエストの従業員募集のときはぜひ、村民を優先して入れてほしい」と村長から直接頼まれたこともあった。
■運命変えたスロットでの大負け
ノースウエストに入社してしばらくたったころ、同郷の琉球古典音楽家で、琉球古典音楽安冨祖流絃聲会(あふそりゅうげんせいかい)師範の宮里春行への弟子入りを兄・朝進から勧められた。村の伝統行事で三線に親しみ、自己流で研さんを積んできた朝一は「自分でできるのに、三線は習うものなのか」と不思議に思った。
宮里の下を訪れることのないまま、3年の月日が過ぎた1957年、出会いは突然訪れた。
その日の朝一は、那覇市のハーバービュークラブでスロットマシーンに夢中になり、大負けしていた。自宅へ帰るためのバス賃も全部スロットに食われて、とぼとぼ歩いていると三線の音が聞こえてきた。「いい音がするな、懐かしいな、と思って音をたどり、着いた家で名前を告げると『待っていたよ』と迎え入れられた。そこが、宮里先生の研究所だった」
■身分証代わりの三線
偶然の出会いをきっかけに朝一はその年、宮里に師事。宮里は歌い方を生き物の様子に例えるなど独自の教え方で、分かりやすく琉球古典音楽の妙技と魅力を伝えた。力が付くと、次はさまざまな舞踊研究所の稽古に朝一ら弟子を連れて行き、研さんを積ませた。何を歌うかはその場に行くまで分からず、弟子たちは宮里や兄弟子の弾く三線の指を見ながら夢中で弾き、歌帳を持参して歌詞をしたためて、歌を覚えていった。
61年、朝一はノースウエストの講習受講のため、米国シカゴに滞在していた。「せっかくなので行ったことのない、いとこが住む米国ハワイ州に行こう」と思い立つ。「三線を持っていたら、世界中どこでも、ウチナーンチュと認めてくれる」と、身分証代わりの三線を手に飛行機に乗った。
ハワイに着くと、迎えに来たいとこが「三線は持っているか」と聞いてくる。「うん」と答えるとそのままホノルル市のラジオ局「キキ放送」に連れて行かれ、琉球古典音楽を数曲披露することになった。その後、観光を終え、いとこに案内されたレストランに入ると、200人ほどの人が出迎えた。ラジオを聞いて、朝一を歓迎するために集まった県系人や現地の人たちだった。
お願いされるままに「浜千鳥」や「子持節」「仲風節」を披露すると、人々は涙を流して朝一の歌三線に聞き入った。 「そのときの人々の姿が、琉球古典音楽を本気で志すきかっけになった。だから、ハワイには今でも強い思い入れがある」
■師匠を連れて求婚
朝一は那覇飛行場で働く傍ら、県内にいる限りは声が掛かれば三線を持って駆け付け、高い技量とともに芸能関係者の信頼を得ていった。結婚式や年日祝い、新築祝いなどにも頻繁に呼ばれ、芸能人として有名になり、航空会社の社員だと告げると「お仕事をしているんですか」と驚かれた。
沖縄統治の最高責任者である高等弁務官が参加する基地内の芸能鑑賞会にも、定期的に参加した。米軍の高官は「沖縄はいい所だね。自家製の三線を奏でて皆を喜ばせる。お祝いの花が咲いている感じだ」と目を細めた。芸術文化を大切にする米国の姿勢は、朝一の芸能への思いを深くさせた。
精力的に芸能活動に関わる姿勢は現在も貫かれている。多忙な朝一を今日まで支える妻の栄子は「母子家庭みたいなものだったけど、(朝一は)良いことばかりしているから何も言えない」と明るく笑う。
栄子と朝一は飛行場のレストランで出会った。キャッシャー(レジ係)の栄子に朝一が一目ぼれし、程なくノースウエストの上司と一緒に店を訪れて栄子に求婚した。しかし断られ、今度は師匠の宮里と兄・朝進と一緒に、栄子の実家まで結婚を申し込みに行った。
栄子が帰宅する頃には、既に栄子の父と朝一らが意気投合していた。栄子が結婚を承諾すると、公演慣れしている朝一だけに、式の手配はあっという間だ。69年、那覇市の琉球新報ホールで2人は結婚式を挙げた。
■「人間国宝になりたい」
60年代後半、朝一は米軍嘉手納基地の知人から、基地で使っていた大型クーラーを買い取ったことをきっかけに、機内を冷却したり清掃したりするグランドハンドリング(航空機支援業務)の会社「那覇エアポートサービス」を立ち上げた。
ノースウエスト勤続20周年を迎えた72年、沖縄が日本に復帰する5月15日をもって同社との雇用契約が切れることになったため、那覇エアポートサービスの取締役に就任。2年後の74年に那覇エアポートサービスはエアー沖縄(2016年よりANA沖縄空港)と合併した。
復帰と同時に「組踊」が国の重要無形文化財に指定され、朝一の師・宮里も組踊保持者に認定された。沖縄の伝統芸能が持つ芸術性が認められた証しだった。 一方の朝一は76年に初の独演会を開催。78年には自身の研究所(60年開設)の第1回発表会を催すなど、復帰後は役員業務をこなしながら、発表の場を多く設けることで県民に芸能の素晴らしさを伝えた。
還暦を過ぎたころからは、さらに後進の育成に力を注いだ。県費留学生の受け入れを機に1994年からは、公演「翔べ!!うた・三線21世紀へ」を始める。
公演ではハワイやアルゼンチン、ブラジルなどから訪れた県系3世、4世の留学生らが、郷土への思いを舞台で爆発させ、共に舞台に立った県内の若い実演家も琉球古典音楽の魅力を再認識した。
2019年の「音楽の殿堂」カーネギーホールでの公演は、「翔べ!!」に出演した留学生らが、朝一の恩義に報いようと企画し、実現させたものだった。
三線を手に世界を回った朝一は復帰前も復帰後も、一貫してウチナーンチュだった。結婚する前から栄子に「僕は人間国宝になりたい」と言って芸能の魅力を信じ続け、2000年に「琉球古典音楽」の人間国宝になり、願いを実現させた。
「若い皆さんに誇りを持って、琉球古典芸能に取り組んでほしい。『継続は力なり』だ。子どもたちが幼いときから芸能や琉歌に触れ、沖縄の文化を学べる環境がもっと必要だ」 。そしてかみしめるように言う。「沖縄人、ウチナーンチュに生まれて幸せだな。もし『沖縄はどこにあるのか』と聞かれる世の中になっても、沖縄のことを世界中の人に自慢したい」
世界中に琉球古典芸能の魅力を伝え、多くの才能を開花させた沖縄文化の伝道師は、まっすぐ前を見る瞳で、芸能の末長い未来を願う。
(文中敬称略) (藤村謙吾)
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