「一人一人にご恩返しはできませんが、きょうも偽りのない仕事をします」。玄関に置かれた鏡に向かって毎朝誓い、工房に向かう。今年100歳になった人間国宝・平良敏子が50年以上続ける習慣だ。
沖縄で日本への復帰運動が展開された1950年代から60年代。敏子は芭蕉布づくりに没頭していた。「沖縄へ帰ったら、沖縄の織物を守り育ててほしいな」。戦時中に女子挺身隊として動員された岡山県倉敷で出会った倉敷紡績社長の大原総一郎の言葉が原動力となっていた。
敏子は沖縄本島北部の大宜味村喜如嘉出身。幼い頃、どの屋敷の隅にもバショウの木があった。見渡せば糸を績(う)む女性たちの姿が日常だった。
終戦後の1946年、喜如嘉に戻ると様子が一変していた。バショウ畑はどこにもなかった。バショウは大きく育つまでに3年かかる。バショウを育てるゼロからのスタートだった。生活もままならない時代、米国人向けの芭蕉布の活用を提案し、「こんなものを作って…」と批判されたことも。それでも芭蕉布を復興させる思いは揺るがなかった。
72年、沖縄が日本に復帰したのと同時に芭蕉布は県の無形文化財に指定され、敏子はその保持者に認定された。「続けてきたからもらえたんだはずね」。戦後、途絶えそうになった芭蕉布の復興に奮闘し、沖縄が世界に誇る伝統工芸にまで高めた歩みをたどる。
(敬称略)
(新垣若菜)
黄金の糸、沖縄戦を越えつなぐ…復興支えた言葉と鏡 人間国宝・平良敏子さん(2)に続く
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