(芭蕉布と生きて100年「偽りのない仕事」今も 人間国宝・平良敏子さん(1)から続く)
民芸運動の主唱者・柳宗悦は著書「芭蕉布物語」で次のように書いた。「こんなに美しい布はめったにない」「驚くべき財産」「手仕事の美」―。
そんな芭蕉布の里、大宜味村喜如嘉に平良敏子(100)は生まれ、育った。幼い敏子にとって工房は遊び場だった。制作途中の作品で遊んで、ものさしでお尻をたたかれることもあった。
母・カナが織っている最中の作品を誤って切ってしまうこともあった。「そうしたら一からやり直しになるんだけど、母はなぜか叱らなかった」
■ナイフ手に奔走した祖父
小学3年生になると、カナは膝の上に敏子を乗せて、木綿を織らせた。踏み木に足が届かないため、枕木を置いた。
高等科の頃には、自らの着物を織るようになった。その頃、船大工が多い喜如嘉では男たちの村外への流出が激しかった。敏子の祖父・真祥は芭蕉布の技術革新と生産拡大に奔走し、村に残された女性たちの仕事として芭蕉布の見直しが始まった。
芭蕉布の品質が向上する一方で、織物には税がかけられた。生産者が激減した際には、祖父はシーグ(ナイフ)を持って村を駆け回り、「シーグと繊維をつなぐ技術があれば、食いっぱぐれない」と説得して各家庭に配った。父・真次もまた、販路拡大に力を尽くした。
1940年には大宜味村芭蕉布織物組合を結成。県の補助を受け、喜如嘉や饒波、謝名城に芭蕉工場を設立した。八重山などから技術者を招き、技法の開発などに取り組んだが、大平洋戦争の勃発で中断され、芭蕉布は衰退していった。
沖縄に戦争が迫ってくると、稲刈りや田植えの日々になった。農作業をしたことのなかった敏子にとって「一番つらかったのは、まきを運ぶこと」。想像以上に重い生木を担ぎ、列をなして移動する。「私が転べば他の人に迷惑をかける」と、必死に踏ん張った。家に帰るとくたくたで動けなかった。
■異郷で耳にした「玉砕」
1944年、敏子は第4次県勤労女子挺身隊として動員された。どこへ行くとも分からないまま船に乗った。
岡山県倉敷市に到着し、万寿航空機製作所に入所。航空機緊急増産という政府の方針で、海軍機の翼部分の製造や組み立てに従事した。
当時、倉敷には地方からの学徒動員が大勢いた。ある朝、敏子が洗面をしていると「沖縄の土人ってどんな人ですか」と一人の学生に声を掛けられた。敏子は「色が黒いし、言葉のアクセントもある。生活様式も違うかもしれない。でも他は何も変わらない」と返した。後に、その学生の引率教員から「失礼なことを申したそうで…」と謝罪を受けた。
45年6月。「沖縄が玉砕した」との知らせが届くが、家族の安否を知るすべもなかった。同年8月、日本の敗戦と同時に工場は操業を止めた。帰るあてのない敏子は岡山に残ることになった。
しばらくすると、倉敷紡績の社長を務める大原総一郎から声が掛かった。柳宗悦の民芸運動に深い影響を受けていた大原は「沖縄の文化を倉敷に残したい」と語った。
敏子がバショウの産地で育ち、芭蕉布づくりの手伝いをしていたことを話すと、後の倉敷民藝館初代所長となる染織家の外村吉之介を紹介してくれた。敏子は外村から織りの技術を学んだ。
1946年10月、敏子は沖縄への帰郷が認められ、大原と外村に倉敷駅まで見送ってもらった。その時、大原がつぶやいた。「沖縄へ帰ったら、沖縄の織物を守り育ててほしいな」。その言葉が今日まで敏子の原動力となっている。
喜如嘉に戻ってきた敏子の目に映ったのは、荒廃した土地だった。豊かなバショウ畑は見る影もなくなっていた。マラリアを媒介する蚊の発生源になることを理由に米軍が伐採し、殺虫剤で農薬の「DDT」をまいたのだ。
芭蕉布作りはバショウを育てることから始まった。復興に向けて周囲に協力を呼び掛けたが、需要がなく生計としては成り立たないことから、苦しい日々が続いた。
米軍の払い下げのテントや靴下をほどき、その糸で着物を織り、食料と換えてもらうような生活だった。敏子は「あの時が一番大変だった」と振り返る。
生活が落ち着き、ようやく芭蕉布と向き合えるようになったのは帰郷から4年がたったころだった。それでも、なお、着物を織る上質な糸は足りなかった。バショウの外皮部分を使って、クッションやテーブル掛けなども織った。新しい芭蕉布の活用で出来上がった商品は外国人に好評だった。
■女性たちの力
敏子の奮闘もあり、喜如嘉の芭蕉布は優れた工芸品としての価値を取り戻していった。
喜如嘉の芭蕉布の特色は、原材料であるイトバショウの栽培から芭蕉布製織、仕上げに至るまで、全て手作業であることだ。伝統的な分業による生産方法が取られている。
「芭蕉布は一人でできるものではない。みんなで作り上げるもの」。敏子は喜如嘉の女性たちを織り手として雇い、徹底的な分業で作業の集中化と合理化を図り、産業に成長させることも怠らなかった。
沖縄で日本復帰運動が盛んになり始めたころ、敏子の周囲も慌ただしくなった。「みんなは運動であちこちに行っていたが、私は芭蕉布を作るのに精いっぱいだった」
72年の復帰後は県外にPRする機会が増え、芭蕉布の価値はさらに向上した。物産展や展示会では以前と比べものにならないほど、商品が売れた。
復帰前から敏子のもとには多くの著名人が訪れていたが、復帰後は「どっと増えた」と言う。ただ、忙しすぎて誰が訪れたか気付かず、後で芳名録を見て知ることが多かった。
日本復帰と同時に芭蕉布は県の無形文化財に指定され、敏子は「保持者」に認定された。2年後には国指定の重要無形文化財として、敏子を代表とする「喜如嘉の芭蕉布保存会」が保持団体に認定された。「うれしいか何かも分からなかった。ただ、仕事を続けてきたからもらっているんだねとしか、思わなかった」と控えめに語る。
■なるようにしか、ならない
多くの人に認知されると注文が増え、買い取り価格も上がった。84年には「伝統的工芸品」指定を受けるため、喜如嘉芭蕉布事業協同組合を設立。86年には大宜味村立芭蕉布会館が完成した。そして2000年、敏子は重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
いま、芭蕉布が世界に誇る沖縄の伝統工芸品となる一方で、従事者の高齢化、後継者不足が課題となっている。「1年や2年で習得できるものでもない。何年も修行を重ねていくことが大切だけど、難しいね」
芭蕉布が出来上がるまでには多くの工程が必要だ。イトバショウを育てる畑仕事に始まり、木を切り倒して皮をはぐ、皮は灰汁で煮る。そして繊維を取り出し、糸を績(う)む―。「本当に大変だからね。しかもやればやるほど難しいでしょ」と敏子は言う。ただ、悲観はしていない。「昔は使わなかった染料も使用して(商品展開をして)いるからね」
50年後、100年後は?と問うと、笑ってこう返した。「どうなるか分からないけど、なるようにしかならないよ」
■心を映す鏡
敏子には守り続けている習慣がある。ある賞を受賞した時に、有志から「お祝いに何がほしいか」と尋ねられた。「心を映す鏡を」とお願いしたが、「そんなものは…」と断られた。
自ら、那覇に行き、大きな鏡を買った。その鏡に向かって毎朝誓う。「一人一人にご恩返しはできませんが、きょうも偽りのない仕事をします」。そして工房に向かう。
2021年2月で100歳を迎え、今も現役を貫く。午前7時から昼食を挟み、午後5時まで手は休むことなく糸を績む。
爪先で器用に裂いてはつなぐ。滑らかな動作の先にある苧桶(ウンゾーキ)には、透き通った黄金色の糸が幾重にも重なっていく。
作業を終え、家に戻ると足はぱんぱんになり、手はしびれるように痛む。それでも「不思議なことに、績んでいる時は痛くないし、楽しい。それに他にできることがないから」。ずっとそうしてきたように、今日も明日もまた糸を績む。
(敬称略)
(新垣若菜)
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