沖縄芝居の役者で「喜劇の女王」と呼ばれる仲田幸子さん(86)は芸歴70年余、うちなーぐちによる機知に富んだ笑いを届けてきた。仲田さんは7月上旬、座長として引っ張ってきた劇団「でいご座」の活動を9月に終了することを公表した。9月16日に沖縄市民会館で開く敬老の日公演が最終公演となる。
劇団を閉じる理由について「大人数の一行を率いての公演は体力的に難しくなった」と残念がる。活動の拠点にしている那覇市松山の「仲田幸子芸能館」も20年5月に閉店する予定だ。
孫で民謡歌手の仲田まさえさんら「やーにんじゅー(家族)」を率いての小規模のお笑いショーは続ける予定。「芝居をやめたらお年寄りが寂しいはずよ。違うねぇ、私自身が一番寂しくなるかもね」と寂しさをにじませながらちゃめっ気たっぷりに語る。
お客さんの喜ぶ顔見たくて続けてきた
―沖縄芝居の世界に入ったのが15歳だった。入団したのは「南月舞劇団」。きっかけは何でしたか?
「物心ついたころから、芝居の好きな叔母に誘われ公演を見に行っていたから憧れていた。南月舞劇団の玉城盛義先生が座長、平安山英太郎先生が副座長だった。玉城先生は神様のような温厚な方。平安山先生はけいこに対して厳しかったけど芝居がうまいから、じっと見詰めていたよ。最初のころは炊事、洗濯もしていた。口伝えで芝居を覚えた。何よりも芝居が好きだったね」
貧しくてお金がなく 対馬丸乗れなかった
―子どものころに沖縄戦を体験しています。
「私を出産した後に、母は病気で亡くなった。兄と二人、祖母や親戚の下で育てられた。那覇市の甲辰小学校に通っていたころ、学校が本土に疎開させようと対馬丸への乗船を家族に呼び掛けた。私は親がいなくて寂しがり屋だったから友達と一緒に乗りたかったけどお金がなかった。10円を用意しないといけなかったけど貧しくてね。乗れなかった。対馬丸が出航した晩、私は真夜中に港へ走った。ヌギバイ(無銭入場)してでも船に乗ろうと思って。でもすでに船は出航し港から20、30メートル先に進んでいて乗れなかった。もし乗っていたら生きていなかった。芝居をする運命だったかもしれないよ。その後、やんばるの久志村に逃げて、米軍に捕まった。それから石川市(当時)にあった収容所で過ごした」
―後に結婚する仲田龍太郎さんとの出会いは南月舞劇団でだったんですね。
「龍太郎は学問があり、弁が立ったから平安山副座長の助手になって脚本の口述筆記をした。やまとぐち(標準語)を操れる役者がいなかったので、舞台に立つようになり一座のスターの相手役に抜てきされた。私は龍太郎にほれられて結婚したんだよ(笑)。3人を育てながら芝居を続けた。子どもたちの世話をできているのかと悩んだりもしたけど、人を喜ばすのが好きだからやめられなかった」
―「新聞少年」「別れの煙」「母の雄叫び」など上演作品のほとんどは、龍太郎さんが舞台に立つ傍らに書いたそうですね。
「新聞少年は実話ですよ。主人公の武男は、父親を戦争で失い病気の母のために新聞配達をして家計を支えている。だが強欲な亡父のきょうだいが武男たちの家を勝手に売ろうとする。そこにハワイに出稼ぎに行っていた叔父が帰省し、きょうだいを諭す。貧しさが由の財産争い。戦争で身内を失った人たち。沖縄のどこにでもあった実話だよ。龍太郎は実話を基に脚本を書いていった」
観客の構成を見て内容変えることも
―喜劇役者としての才能を見出したのも龍太郎さんですね。56年に夫婦で劇団「でいご座」を旗揚げしました。
「今日はどんなお客さんが入っているか、年齢や内地の人かウチナーンチュなのかを見て、言葉や内容を変えている。アドリブが多いから団員は戸惑うけど、次第に慣れてきたねぇ。役作りに時間をかけている。ユタ役になるために、親戚のおばあたちと一緒に拝所に行って、1年かけて役になりきった」
―23歳で座長になり、団員を引っ張ってきた。やりがいもご苦労もあったのではないですか?
「団員の家賃を払って家計を支えたことも、時計を質に入れて劇団の収入にあてたこともあった。旗揚げしたころは、巡回公演ばかりだったから、国頭の東海岸までやんばるを回った。招かれていない場所で公演したから怒られることもあったよ(笑)。でも公演後に喜ばれた。苦労もあったが、お客さんが笑って楽しんで『生きていて良かった』『面白かった』って言ってくれるとうれしくて。やめられないねぇ。金もうけより喜ぶ顔を見たくて続けてきた」
―十八番「床屋の福ちゃん」は、白化粧にひげづらをした男性役の幸子さんが登場します。人気の演目ですね。
「私が舞台に現れただけで、うちなーぐちが分からない人も笑ってしまうね。散髪に行った男性が、店主とコミュニケーションがうまく取れず、頭ほどの大きなはさみやバリカンで髪を切られそうになる。その様子がこっけいなんだろうね。福ちゃんを見たという人から『良かったよ~』と電話をもらったことも多かった」
―「でいご座」は9月16日の公演が最終公演になります。寂しさがあるのではないですか。
「まだまだ元気なら続けたいけど。跡を継ぐ人がいないのね。団員のけいこから、舞台の流れ全体を見ながらアドリブの指示まで私のように全体を一人で手掛けるのは難しいからね」
―今後について。
「劇団を閉じても芸能活動は生きている限り続けたい。(孫で役者・歌手の)まさえを含めてやーにんじゅー8人で小さい規模の『お笑いショー』を続ける予定。まさえは県外のショーや県内のホテルの公演に招待される機会が多いから、私が付いて司会をやってもいい。私がやめたらお年寄りが困るはず。何より私が寂しくなるから、生きている限り芝居を続けたい」
聞き手 文化部長・高江洲洋子
なかだ・さちこ
1932年10月10日、那覇市生まれ。47年に南月舞劇団に入団し、仲田龍太郎さん(2011年死去)と出会い、結婚。鶴劇団やときわ座などを経て56年に龍太郎さんと劇団「でいご座」を旗揚げし、座長として一座を引っ張ってきた。うちなーぐちによる機知に富む即興のせりふで観客を沸かせた。でいご座は、映画やテレビの人気に押されて一時休演したこともあったが、仲田さんは電波や映像の世界でも人気を集め、再び脚光を浴びた。「喜劇の女王」と称されている。
取材を終えて 毒を笑いに変える話術
「だぁ、あんたはおばあを1時間以上も拘束するのか。コマーシャルの撮影なら15分で済むよ」。インタビューの途中、笑いながら席を立とうとする仲田さんを引き留め、別の日に2度目の取材をお願いした。普段の会話に“毒”を効かせ笑いに転換する話術に脱帽した。
「お客さんの喜ぶ姿がうれしくて」と何度も口にした仲田さん。「でいご座」の終幕を決意するまで相当悩んだ様子で、寂しさがにじんでいた。母の日といえば私の親せきの間でも「でいご座の公演に行く」が合言葉だった。劇団の終了を惜しむ人は多いだろう。仲田さんは戦後、一貫して笑いで県民を元気づけた。今後、個人として芸能活動を続けるという仲田さんをこれからも応援したい。
(琉球新報 2019年8月5日掲載)