兄、説得振り切り戦場へ 中村吉子さんの体験 母の戦争(9)<読者と刻む沖縄戦>


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豊見城市の海軍壕公園

 玉城村(現南城市玉城)前川から多くの住民が兵士や防衛隊として戦場に動員されます。中村吉子さんの兄、大城伊十さんはその1人です。吉子さんの息子、陽一さん(67)=西原町=の記録は伊十さんにも触れています。

 《子どもの頃の肋膜炎が元で海軍の徴兵検査に不合格となったおかーの兄が防衛隊に召集されました。南部戦線が始まる直前くらいの時期に帰省して、母親(私の祖母)のことや嫁のことを頼むと言ってきた。

 おかーは兄に「こんなに艦砲を撃ち込まれ、グラマンの機銃掃射も頻繁にあるから、もう防衛隊に戻らず自分たちと一緒に逃げてくれ」と頼んだ。しかし、兄は「こんなことをして部隊に見つかったら重営倉送りだ、女には分からない」と軽く笑って部隊に戻りました。しかし、これっきりでした。》

 伊十さんは豊見城で亡くなったとみられています。戦後、海軍壕付近で小石を拾い、遺骨代わりとしました。沖縄戦当時、伊十さんの妻は身ごもっていました。米軍に捕らわれた後、石川の収容地区で男の子を産みます。

 陽一さんは母と伯父の無念を記します。

 《兄(遺影でしか見たことのない伯父さん)の判断も分かりますが、結果的には、おかーの判断が正しかった。子どものころはよく分からなかったが、今はおかーの胸の内が分かります。しかし、一番残念なのは兄自身でしょう。》