今夏行われた東京五輪の開幕を5カ月後に控えた2月、代表候補の県勢選手が電話越しにぽつりぽつりと言った。「本当に五輪にお金(税金)をかけて大丈夫なのかな。メダルを取っても、いい記録を出しても素直に喜べるのかな…」。当時、東京は新型コロナウイルスの感染拡大による2回目の緊急事態宣言下。世論が開催反対に傾く中、その言葉には1人のアスリート、社会人としての複雑な心境がにじんでいた。
史上初めて1年延期された五輪。約半世紀ぶりに国内で開催される夏季五輪はトップアスリートが力と技を競う場であると同時に、コロナの猛威を助長する危険性をはらむ極めて公共性の高い国際イベントとなった。二つの“顔”は紙面にも如実に表れる。
総合面には開催可否を巡る関係者の動向や運営課題に関する記事が載り、社会面には人々の開催による感染拡大への不安や選手へのエールの言葉が並んだ。さらに本紙の5月30日付の社説では「中止を決断すべき時だ」と断じ、各面にはさまざまな視点からの情報、主張があふれた。
開催するか否かに関わらず、運動部の担当記者としての役割は最後まで県勢選手たちの動向を追うことだった。沖縄のメディアで取材許可証が付与されたのは琉球新報と沖縄タイムスのみで、記者は1人ずつ。全国メディアが紹介できる選手数は限られ、ほぼ無観客で開催されたため、県勢の活躍を記録する責任は大きい。メディアの取材人数も制限されたが、幸い毎試合後に2メートル以上の距離を空けて直接取材ができた。できる限り質問を重ねてプレー内容やコロナ禍での開催に対する受け止めなどを聞き、連日大々的に報じた。
五輪・パラ報道を巡っては「報道姿勢が矛盾してないか」など読者から批判の声も寄せられた。開催反対の世論が大勢の中で強行されたが、歴史的な大会だったことは間違いない。逆境の中でのアスリートの躍動は、どれも大きく報じるほどのニュース性があったと感じる。ただ、大会運営の感染症対策や人々への影響まで取材を尽くせたかは検証が必要だ。「スポーツ」という一つの分野ではくくりきれなかった未曽有の五輪・パラ。大会を巡る光と影をいかに取材し、報じるか。重い宿題と向き合い、日々の取材に生かしていきたい。
(長嶺真輝)