ギーザバンタで覚悟の投降 中村吉子さんの体験 母の戦争(14)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬
八重瀬町のギーザバンタ

 中村吉子さんの避難は続きます。息子の陽一さん(67)=西原町=は母の証言をつづります。

 《ある日の夕方、暗くなりかけた時間に、おかーが避難している壕の前で「よしちゃんよ、明日(あちゃあ)からくまぬ壕んかい戦車が火(ひー)ふちくむんでぃんどー」(明日、戦車がこの壕を火炎放射で攻撃するよ)と大声で呼び掛けながら逃げる少年がいた。

 見たら隣近所のヨシヒコじゃないか。「ヨシヒコ待ってくれ。自分も一緒に連れて行ってくれ」と大声で呼んだが、「戦なーはいばいどぅやんどー」(戦争はばらばらだよ)と返してさっさと逃げてしまった。

 翌朝、戦車の轟音が耳元で響き、飛び起きて外に出ると砲門から火を噴いて迫ってくる戦車が見えた。昨夜のうちに荷造りしておいた風呂敷包みを一つ抱えて一目散に逃げた。1人で走って逃げた。》

 ヨシヒコのおかげで助かった。「てぃんがどぅやる」(天のなせる業)と吉子さんは語っていました。

 吉子さんは現八重瀬町のギーザバンタに追い詰められます。

 《拡声器で投降を呼び掛けるアメリカ兵の声が頻繁に聞こえるようになっていた。「米軍は捕虜を殺さない」という中隊長の話が頭にあったとはいえ、投降に踏み切れなかった。

 ギーザバンタの海岸に追い詰められて満潮には腰まで潮につかりながら避難する日もあった。このままだと死ぬことになると覚悟を決めて出て行ったら、何事もなく収容された。》