嘉陽でマラリアに苦しむ 中村吉子さんの体験 母の戦争(15)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
現在の名護市嘉陽の集落

 中村吉子さんが八重瀬町のギーザバンタで米軍に捕らわれたのは、沖縄戦を戦った米第10軍司令官のバックナー中将が糸満市真栄里で戦死した1945年6月18日ごろです。息子の陽一さん(67)=西原町=はそのことを記しています。

 《そのうち、バックナー中将戦死の日に出て行った者は民間人、軍人を問わず無差別に撃ち殺されたと聞かされた。自分が投降した日と、そう違わないと言っていた。》

 バックナー戦死後、報復のため米兵は民間人を無差別に殺害したという話があります。

 吉子さんは石川の収容地区に送られ、南部で別れた家族とも合流しました。その後、久志村(現名護市)嘉陽の収容地区に移されます。食糧不足に泣かされました。マラリアにも苦しみました。

 《嘉陽ではつらかった。アメリカの配給も乏しく、地元の産物もない。本当に何もなかった。中でもつらかったのは「島尻たーが押(う)し寄(ゆ)しぃてぃちゅうくとぅ、わったーがかむしん、ねーらんなとーん」(島尻の人たちが押し寄せてくるので、われわれの食べ物がなくなった)と言われたことです。

 南部戦線での消耗に加えて嘉陽での食料不足が響き、体力を失ってマラリアに感染してしまった。毎日決まって午後になると激しく震えて高熱を出し、危うく命を失いかねない状況に陥りました。》