毎日穴掘りばかり 仲村政子さんの体験 母の戦争(18)<読者と刻む沖縄戦>


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前原民子さん

 那覇市内にお住まいの仲村政子さん(87)の沖縄戦体験を紹介します。玉城村(現南城市)で生まれ育った仲村さんは南部の激戦地をさまよいました。米軍に捕らわれ、名護市二見の収容地区に送られます。現在、仲村さんは療養生活を送っています。母から戦争体験を聞いてきた娘の前原民子さん(61)が体験談をまとめました。

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 仲村政子さんは1934年6月、玉城村親慶原で生まれました。親慶原は首里方面の寄留民が屋取を構えた地といわれ、戦前は「垣花二区」という行政区でした。地元では「ウェーキバル」「ウェーキバルヤードゥイ」と呼んでいたそうです。

 敗戦後の46年4月、玉城村百名から知念高校が移転してきました。翌年には隣接する佐敷村(現南城市佐敷)新里の高台に沖縄民政府が置かれ、にぎわいをみせました。石川と並んで戦後沖縄の出発地の一つとされています。米軍基地もありました。親慶原に改称するのは51年です。

 仲村さんの家は現在の琉球ゴルフ倶楽部の近くにあり、玉城国民学校に通っていました。両親は出稼ぎで兵庫県に渡っており、仲村さんは祖母と2人暮らしでした。

 44年になり、子どもたちも壕掘り作業に駆り出されました。「授業どころではなくなった」と仲村さんは語っていました。

 《学校には通ったけれども、授業は形だけになりました。戦争の準備です。空襲警報が鳴ったらすぐ逃げられるよう、毎日穴掘りばかりをやっていました。ちゃんと勉強をした記憶はありません。》