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「本物の味の伝承を」 琉球料理研究家・松本嘉代子さん(1)<復帰半世紀 私と沖縄>


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学生時代の思い出を振り返る松本嘉代子さん=4日、那覇市泉崎の松本料理学院(大城直也撮影)

 沖縄が米統治下にあった1958年から60年にかけて、のちに琉球料理研究家になる松本嘉代子(82)は、栄養士を目指して本土で勉学に励んでいた。

 沖縄で安価に手に入ったアメリカ由来のコーヒーやココアは、まだ本土では珍しかった。それらを包んだ小包4個を沖縄から兄に月に1度送ってもらい、「舶来品」として東京のアメ横で売って生活費を工面していた。時計店を営む親戚から安値で買ったオメガの時計やシェーファーの万年筆は高値で売れ、1個の時計が半期分の授業料になった。「アメリカムンは右から左にすぐに売れた。アメリカの恩恵を受けて学校に行くことができた」と振り返る。

 沖縄と本土の味の違いを知ったのもこの頃だ。下宿先で出たみそ汁に衝撃を受けた。沖縄は具がたくさん入っておかずの代わりになる「食べるみそ汁」。一方、本土はわかめや豆腐が少し入る「飲むみそ汁」。「食べるみそ汁」に慣れ親しんでいた味覚には、本土のみそ汁はあっさりしていた。「いろんな食材のだしが出て味くーたーな沖縄の料理に比べて、全般的に本土の料理は味が薄めだった。風土や気候の違いが調理法に現れて味も変わるのだと知った」

 沖縄に戻り、コザや那覇で料理教室を開いた。アメリカ世からヤマト世へ移り替わっていった60年代から70年代にかけて、教える料理や使う材料は、時代の変化を表していた。コザではアメリカ文化ならではの、缶詰に入ったハムやソーセージを使った料理を教えることが多かった。1972年の日本復帰前後を通して生徒からリクエストが多かったハンバーグやビーフステーキは「洋食への憧れ」の象徴だった。復帰後はケーキに使うバタークリームが生クリームへ、お祝いの時に並べるご飯は、豆ご飯からちらしずしや巻きずしへと変化を遂げた。

 そうした時代の変化の中で、沖縄は独自の食文化を築いてきた。今やチャンプルーや沖縄そば、サーターアンダギーなどは、沖縄ならではの食べ物として全国に名をはせる。

 だが一方で「琉球料理の正しい調理法や名称を知る人が少なくなり、継承が難しくなっている」と危機感を募らせる。「世界中の食べ物がすぐに手に入る今だからこそ、ウチナーンチュの足元にある琉球料理を見直すべきだ。先人からの伝統を、次世代に引き継がないといけない」と力を込めた。

(文中敬称略)
(嶋岡すみれ)


 沖縄が日本に復帰して来年で半世紀。世替わりを沖縄とともに生きた著名人に迫る企画の11回目は、琉球料理研究家の松本嘉代子さん。料理を通して時代の変化を目の当たりにしてきた松本さんの歩みと思いを紹介する。

(その2)忘れられないイナムドゥチ…数百人分の試食を用意する理由に続く