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忘れられない「イナムドゥチ」…変わる食卓、途絶えぬ文化に 琉球料理研究家・松本嘉代子さん(2)<復帰半世紀 私と沖縄>


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学生時代の思い出を振り返る松本嘉代子さん=4日、那覇市泉崎の松本料理学院(大城直也撮影)

(その1)「本物の味の伝承を」から続く

 父・豊徳は1929年に農業移民でフィリピンのミンダナオ島ダバオに渡り、34年に母・春江を呼び寄せた。ダバオでの麻栽培が軌道に乗るまでは、ルソン島バギオで雑貨店を営んだ。松本嘉代子(82)はそこで39年5月5日に長女として誕生した。翌年にダバオへ移って本格的に麻栽培を始めた両親の元、フィリピンで生まれた4人のきょうだいと共に、のびのびと育った。

 42年にフィリピンが日本の統治下に置かれると、食糧増産体制に従うために父はサトウキビ栽培を始め、黒糖作りに力を入れた。45年に米軍がダバオに上陸すると、日本軍は在留日本人にタモガンへ避難するよう指示した。多くの日本兵と在留日本人が逃げ込んだタモガンは激戦地となり、多数の犠牲者を出した。

 父はタモガンには向かわず、家族や知人、馬や牛などの家畜を連れて近くのジャングルに身を潜めることを決めた。幼い弟や妹は家畜に乗ってジャングルの中を移動したが、歩いていた嘉代子は何度もヒルにかまれた。「タモガンに行っていたら命はなかったかもしれない。父の判断のおかげで家族全員生き延びることができた」。一家は家畜を食糧にして生きながらえ、終戦を迎えた。

 ダバオの収容所でしばらく過ごした後、45年11月3日に鹿児島県加治木に引き揚げた。46年8月まで大分県で過ごし、父の故郷である本部町浜元に移り住んだ。

 

■おわんいっぱいの「感動」

 本部では畑が「あたいぐわー(家庭菜園)」ほどしかなく、家族が生きていくための十分な食べ物を作ることができなかった。両親は嘉代子が5年生の時に那覇に移り、新栄通りの水上店舗で商売を始めた。

 忙しい両親に代わって水くみをしたり、ご飯を作ったりするのは嘉代子の仕事だった。だが母は、いつもお手製のサーターアンダギーを家に置いてくれていた。フィリピンでは食べたことのなかった沖縄の味だった。盆や正月には、母手作りのマヨネーズであえたジャガイモのサラダなどが並ぶのも楽しみだった。

 城岳小学校5年の時、ある琉球料理と衝撃的な出合いを果たす。壺川のかまぼこ屋の娘だった友人が十三祝いを迎え、お祝いに招かれた時に振る舞われたイナムドゥチだ。

 おわんいっぱいに入った豚肉、干ししいたけ、うすあげ、こんにゃく、カステラかまぼこ。こってりした白みそとたくさんの具材のだしが合わさって、濃厚な味わいを醸し出していた。一緒に並んでいた数々のごちそうの中でも、イナムドゥチの味は忘れられない。「私の十三祝いの時は、折りだけで質素なものだったから、とてもおいしくて感動した」と懐かしそうに笑う。まだこの時は、琉球料理を生涯の仕事にすることになるとは思ってもいなかった。

 55年に上山中学校を卒業後、那覇商業高校に進学した。同校にはアメリカ帰りで英語が堪能な先生や、本土の大学を出た先生、きれいな女性の先生など、憧れる人がたくさんいた。後に夫となる、沖縄月星元社長の松本光雄と出会ったのもこの頃だった。

 同校への入学を決めた時から、家庭の事情を考慮して卒業後は就職するつもりだった。だが2年生の時に進学へと方向転換した。きっかけは、担任からの「進学する意思があるなら進学した方がいい」という勧めだった。最初は「先立つものがないから無理です」と受け付けなかった。だが「したいか、したくないかだ」と言われ、進学へと心が傾いた。

 お金の工面の問題から、両親からは「進学するなら修学旅行には行けない」と言われた。だが「本土に進学すれば旅行は行ける」と割り切って進学を選んだ。行かせてもらえるだけ、ありがたいと思えた。

 58年に相模女子大短期大学部家政科に進学した。気候や食文化、言葉も何もかもが違う本土での生活も、同郷の友人たちと支え合って乗り越えた。「沖縄の子は皆同じような状況だったので、特別苦労は感じなかった。いろんな刺激を受けて本土は楽しかった」と振り返る。

友人の十三祝いに招かれた時の写真。中央列の左から3人目が松本嘉代子さん(本人提供)

■「アメリカの香り」広めて

 60年に卒業し、沖縄で栄養士として働くため帰郷した。だが当時、栄養士の就職口は病院か保健所など5~6カ所しかなく、仕事に就けなかった。短大で学んだことを生かせる仕事を探し、当時、那覇市牧志付近にあった洋裁学院内のクッキングスクールに講師として就職した。

 しかし当時の生徒は50~60代の女性たちがほとんど。対して嘉代子は20代。大先輩たちに若輩者の自分が料理を教えるのを申し訳なく思い、再び東京に出た。東京都渋谷にあった国際クッキングスクールに通い、1年間、速成科と師範科で学んで料理教師の資格を取得した。62年に帰郷し、東京で栄養士の資格を取得していた沖縄出身の先輩と、コザ市胡屋(現・沖縄市胡屋)でコザ料理学院を開いた。

 コザでは生徒のほとんどが米軍関係者だった。生徒が基地内の売店(PX)で購入したものを使って料理を教えた。目新しい食材や調味料がたくさんあり、中でもパンプキンパイ専用の「パンプキンパイスパイス」や冷凍エビが印象に残っている。

 シナモンやクローブなど、スパイスを使ったお菓子も教えた。中でもクローブをふんだんに使ったフルーツケーキは、オーブンがあるアメリカの家庭ならではのケーキで、アメリカ文化の象徴のようだった。「クローブと言えばアメリカの香り。いろんなお菓子に入っていて、今でも懐かしくなる」

 64年に結婚し、夫の実家があった那覇市泉崎に引っ越して翌年に長女を出産した。子育ての傍ら、友人らの希望を受け、自宅の台所で料理教室を続けた。69年、自宅の隣にあった靴の倉庫を改築して松本料理学院を開院した。

 教室では和洋中や琉球料理など、さまざまな料理を教えていた。中でも人気だったのは洋食だ。72年の日本復帰により、すき焼きや煮魚など、これまで沖縄ではなじみのなかった料理がもたらされた。
 

松本嘉代子さんが講習会などで教えている伝統的な正月料理(本人提供)

■「監督役」に導かれ

 日本復帰の影響を受けて食卓が変化を遂げていく一方で、嘉代子はある琉球料理の壁にぶつかっていた。お盆に用意するお重だ。夫の実家では、8男の夫に嫁いだ嘉代子を含めて、年齢が若い嫁3人がお重作りの担当だった。重詰めをしていると、監督役だった兄嫁数人が順番に様子を見に来て、それぞれに毎度、詰め方の手直しを受けた。全員の詰め方が違っていて、誰の言うことを聞けばいいのか迷った。

 重詰めを担当してから3年は、まずは兄嫁それぞれの指示に素直に従った後、最後に指導した人の詰め方で収めた。だが4年目に最初からしゅうとめの詰め方にすることを提案し、皆の許可を得て解決に至った。

 「どうしてみんな詰め方が違うんだろう。他の家庭ではどうしているんだろう」。そう疑問を抱いていた時に、本の執筆依頼が舞い込んだ。「このテーマしかない」。各地の琉球料理の行事食を調べた結果、各地域で詰め方が異なることが分かった。そうして77年に初めての著書「沖縄の行事料理」を刊行し、琉球料理の普及、継承を生涯の仕事にしていく。「監督役の兄嫁たちがいたから、いろんなことを教えてもらえた。今はそうした伝統的な味や形を知っている人がどんどん少なくなっている。だからこそ、講習会などで伝えていかないといけない」と語る。

 

■数百人分の試食を用意する理由は

 

2007年12月、第483回新報料理講習会で「伝統の東道盆(トゥンダーブン)で迎えるお正月」をテーマに調理方法を教える松本嘉代子さん(右)=那覇市泉崎の琉球新報ホール

 

 これまで県内外での料理講習会に積極的に取り組んできた。県内の食品関連企業や県から依頼を受け、キューバ大使館や香港で琉球料理を振る舞ったこともある。77年から琉球新報料理講習会の講師を務め、琉球料理の伝統的な正月料理の作り方を伝え続けている。

 何よりも大切にしているのは、本物の味を知ってもらうことだ。「レシピ通りに作っても、本当の味を知らないと、その味でいいのかどうか分からない。だから何よりもまず『味の伝承』が大切だ」と強調する。本物の味を知る人が増えることで、次世代へと琉球料理を引き継いでいくことができる。

 だからこそ、数百人を前にする講習会でも、人数分の試食を用意する。琉球料理に欠かせない豚だしやかつおだし、野菜のうまみを味わってもらう。

 また琉球料理は豚肉や豆腐のたんぱく質、野菜のビタミン、海藻のミネラルなどがバランスよく合わさった料理だ。だしのうまみで味くーたーになるため、塩分も少なくて済む。「琉球料理に立ち返ることで、健康長寿県沖縄を取り戻すこともできる」と希望を抱く。

 琉球料理の継承や、長寿県復活へ向けて行政の役割も重視する。「行政が中心になって動いてくれれば、全県的に取り組みが早く広がる。琉球料理は観光産業にも結び付く。今こそ見直してほしい」と願う。

 「地元の食材を使った料理を地元の調理法で食べるのが一番おいしく、その土地で生活する人の身体に合う。先人が残してくれた食文化遺産が途絶えないように守り、普及、継承していくことが重要だ」と思いを強くしている。

 (文中敬称略)
 (嶋岡すみれ)

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