■道路も「アメリカ世」から「大和世」へ
上の写真は1978年(昭和53年)7月17日の那覇市内を撮影した写真だ。何か違和感を感じないだろうか?そう、車が右側を走っているのだ。
1978年7月30日。沖縄県民が「730(ナナサンマル)」と呼ぶこの日は、歴史的な一日として語り継がれている。
それまで自動車は右側通行だったのが左側通行に変更され、道路標識や道路標示、信号の切り替えがわずか8時間で行われたという、国内で類がない「交通革命」が起こった日だ。
沖縄も戦前は日本の他の地域と同じように左側通行だった。それが戦後、米統治下となったことで交通法規もアメリカ式の右側通行になった。
1972年に米統治は終わりを告げ、日本復帰を果たした。車の走る方向も即座に「日本式」になるかと思いきや、「復帰特別措置法」の中で交通方法は「復帰後3年を経過した適切な時期」に切り替えると記され、しばらくは右側通行を維持することに。
県民の中には「世界の多くの国が右側通行。強いて日本に合わせる必要はない」という肯定的な意見もあったというが「一国一交通制度」が尊重される形で、時間をかけて左側通行へ切り替えることが決まった。
当初、県は復帰から2年後の74年に右から左への切り替えを行うつもりだったが、翌年に沖縄国際海洋博覧会やその後の「アンコール・フェア」(開催は後に断念)とビッグイベントが控えていたことから延期。さらに、道路標識や信号機の変更、バスやタクシーのドアを反対側に取り付けることへの補償、運転手の教育、県民へのPR…などに時間を要すると考慮し、最終的に切り替えは78年7月30日実施と決定された。
78年7月30日を境に「車は右、人は左」の“アメリカ世”から「車は左、人は右」の“大和世”へ―。県全体を巻き込んだ一大プロジェクトが動き出した。
■日常にあふれた「車は左、人は右」
7月30日の切り替えに向けて、街にはシンボルマークやポスター、標語があふれ、「ナナサンマルの歌」までつくられた。テレビや新聞でもキャンペーン報道が繰り広げられ、「クイズ730」という視聴者参加型のクイズ番組は連日放送されて人気を集めたという。
「ナナサンマルは日常の話題だった」。当時を知る男性記者(52)はそう振り返る。那覇に近い浦添市に暮らす中学1年生だった。所属していたバスケットボール部では、一列に並んでリングボードにボールをぶつける練習を「連続で730回成功するまでやろう」と盛り上がった。道路には新しい標識が次々と立てられ、右左折を示す道路標示も塗り替えられていった。「街の風景がどんどん変わっていく。中学生ながらにナナサンマルは身近に感じた」という。
本島北部の本部町で中学2年生だった別の男性記者(53)は「730まであと〇日」とカウントダウンする残歴版を自作し、実家の商店に飾って客にアピールしたという。「ものすごく高揚感があった。(72年の)復帰のときのカルチャーショックが再来したような感覚だった」
一定年齢以上のウチナーンチュにとってナナサンマルは鮮烈な光景として残っている。それぞれの思い出があり、話題を振ればノスタルジックな感情とともに語ってくれる。
■興奮と混乱の中でスタート
来る日に備え、沖縄県警察本部は「対策室」を設置。およそ10年前に「左」から「右」への交通方法変更を行ったスウェーデンの取り組みを研究したという。
左側通行用に新たに設置された信号機や道路標識には、当日までカバーがかけられた。道路標示の矢印は事前にペイントして上から特殊カバーをかぶせた。
右から左へ。切り替えのタイミングは7月30日(日)の早朝6時だ。
前日の29日午後10時から8時間は、全県下で車の通行が禁止された。1700人以上の作業員が投入され、わずか8時間の間に信号も道路標識・標示も一斉に切り替え。警察官は県外からの応援も含め、4200人が夜通し街頭で規制や指導に当たった。
那覇市内の交差点には切り替え作業を見守ろうと多くの見物人が詰め掛け、歩道橋はカメラを構えた人で鈴なりになったという。
午前6時、消防や警察が鳴らすサイレンを合図に、「車は左、人は右」時代が幕を開けた。
変更当初は大荒れのスタートだった。車体が大きいバスはスムーズに走行できずに交差点で接触事故を起こし、玉城村(現南城市)では対向車を避けようとして左側に寄りすぎた路線バスが道路から3メートル下に転落横転した。
県民も不慣れな左側通行にこわごわ、のろのろ運転で、たちまち各地で渋滞が発生。翌日31日(月)は、那覇の国際通りで車が500メートル進むのに1時間かかったといい、会社や役所で遅刻者が続出した。
当時を「鏡の国にいるようだった」と表現する人もいる。
■今も「現役」ナナサンマル世代
ナナサンマルでは、路線バスも全車両を右ハンドル・左ドアの車両に切り替える必要があり、1000台の新車が導入された。このとき各バス会社に導入された車両は「ナナサンマル車」の愛称で親しまれている。
老朽化などで徐々に姿を消していったが、現在も沖縄バスと東陽バスにそれぞれ1台ずつ残る。いずれも走行距離は130万キロ超え(地球30周以上に相当)だが、大事にメンテナンスされながら現役で運行している。
東陽バスのナナサンマル車は、日曜と祝日に限り191番城間線で1日3往復。沖縄バスは週に1回、39番百名線で午前中に2往復の運行をしている。
筆者も、取材で沖縄バスのナナサンマル車に乗せてもらった。三菱ふそうの「MP117K」という型式で、国内ではこの1台だけしかないという。
今の車両と比べると、車体は丸みを帯びてどこか愛嬌があるフォルム。外装に鉄板を継ぎ合わせた丸いビスの形があるのも特徴だ。最新の車両はギアチェンジがオートマチック化されており、最近免許を取った運転手だとナナサンマル車の棒式ギアを扱いきれないそうだ。
東陽バスで現在は配車係を務める平良實さん(70)はナナサンマル当時、運転手だった。
本番まで10日間ほどの練習期間があり、運転手たちは空き地に集められて交代で練習したという。しかし人数が多いため実際に練習したのは「1人10分もなかったはず」と平良さん。
乗客の命を預かる責任感。切り替え後最初の乗車は緊張したのを覚えているという。「景色がこれまでと反対。停留所への寄せや右折の感覚をつかむのに苦労した。運転手はみんな戻ってきて『今日も無事終わった』とほっとしていたよ」と懐かしむ。
交通が右から左へ、一夜にして変わる。こんな経験をしたのは日本で沖縄だけだ。
もしいま、同じことをやれと言われたら?
「ナナサンマル」を振り返り、あらためて沖縄特有の歴史を思う。
ナナサンマル当時の様子は「沖縄県公式チャンネル」内にある動画「沖縄730道の記録」で閲覧することができる。
(大城周子)
※この記事は2018年に取材・執筆したものです。
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