(その1)歌詞の「君」は誰か 大衆に歌い継がれる「喜瀬武原」への思い から続く
青空が広がった9月30日昼。平和音楽家の海勢頭豊(77)は糸満市内の集落内を歩いた。沖縄戦で激戦地となった一帯で、多くの住民が巻き込まれ、命を落とした。中には、一家全滅した家族の屋敷跡が今も残る場所がある。
約39年前にも、この地を訪れた。沖縄が日本に復帰して10年を迎えた1982年のことだ。「慰霊の日」に向けたテレビ番組の企画で、家族全員が戦没者となった屋敷の跡を訪ね歩き、リポーターをしながらテーマ曲を作ってほしいと依頼を受けていた。家族全員が犠牲になった一家の近所に住む人々に話を聞こうとしたが、一様に口は重かったという。
■6月23日を待たず…
当時、一家全滅した家族の屋敷跡に咲く月桃に目が止まった。「これだ」と思い、1番、2番の歌詞、メロディーが同時に浮かんだ。約2週間後。那覇市民会館でテレビの特別番組のため、記念コンサートを開き「月桃」を初披露した。
「月桃ゆれて 花咲けば/夏のたよりは南風/緑はもえる うりずんの ふるさとの夏」(「月桃」1番の歌詞より)
優しく、明るい曲調の中に、沖縄戦の深い悲しみが込められた。住民一人一人が多様な体験をした沖縄戦。誰もが共感し、口ずさめるよう意識した。
例えば、「月桃」の5番の歌詞には「6月23日 待たず/月桃の花 散りました/長い長い煙たなびく ふるさとの夏」とある。
「6月23日 待たず」とは何か。「慰霊の日」は6月23日だが、住民たちにとっては節目の日がいつなのかにかかわらず「自分たちの家族、親戚たちも亡くなってしまった」。住民それぞれが持つ悲しみを投影できるような歌詞になった。
「まず未来を担う子どもたちに歌ってもらわないといけないと思った」。その言葉通り、「月桃」は「慰霊の日」が近づくと、県内全域の小中学校などよくで歌われるようになり、今も多くの人に親しまれている。
■原点の島
アジア・太平洋戦争中の1943年11月、平安座島に生まれた。幼い頃、父の哲は海軍に志願して出征し、戦死した。まだ1歳半の頃に起きた沖縄戦の記憶はないが、戦後、物心ついた頃からは「女性たちが毎日のように泣いていた」と覚えている。身内の戦死の知らせも届くなど、戦争がもたらした悲劇が続いていた。
母の初枝は戦後、軍作業などの仕事で本島へ出ることが多く、後に再婚して島を離れた。海勢頭は、主に母方の祖父・下條善太郎と祖母・ハルに育てられた。子どもの頃、父が残した蓄音機でレコードをかけ、音楽に親しんだ。
平安座島は戦前から、奄美や本島北部、南部などを結ぶ山原船の交易拠点で、にぎやかだった。戦後に漁業が復興すると、さらに活気づいた。野外劇場もあり、芝居や映画などの上映もよく行われた。野外劇場から宣伝用で流れてくるギターの「古賀メロディー」や、音楽や漫談で楽しませた照屋林助らの「ワタブーショー」も海勢頭少年らを引き付けた。島の自然や風景も感性を刺激した。
中学卒業後は前原高校へ進学し、平安座島を出て、本島での下宿生活が始まった。具志川市(現・うるま市)の安慶名や田場、赤野など下宿先は変わった。高校では多くの友人にも恵まれた。みんなで自転車に乗ってサイクリングをするなど、本島内のいろんな場所を訪れ、戦争で破壊された跡も見たという。
■ギターに魅了された学生時代
ギターへの関心が高まっていったのが高校から大学にかけての時期。ラジオから流れてくる「禁じられた遊び」などの曲を聞き、クラシックの世界に魅了された。琉球大学へ進学後、ギターを購入した。書店で、30日間分の練習内容が盛り込まれたギター教本を3日間でこなすなど猛練習を繰り返し、腕を上げていった。琉球大でギターアンサンブルも発足させ、リサイタルも開くようになった。
音楽で生計を立て始めたのが20代後半の頃から。米軍基地内の将校クラブなどでギターを演奏した。米兵たちは、付き合っている沖縄の女性たちのリクエストで「古賀メロディー」を要望することもあれば、ラテン音楽をリクエストすることもあり、要望に応えた。
最盛期は一晩で約30分の演奏をするだけで、1カ月生活できるぐらいの出演料を得られたこともあった。しかし、その生活はそう長くは続かなかった。ベトナム戦争が終結し、出演依頼は少なくなっていった。
■「公民館のような」ライブハウス
ライブハウス「パピリオン」は長年、活動の拠点にしてきた場だ。友人の協力により、1970年10月、コザ市(現・沖縄市)中の町にオープンしたのが始まり。同年12月には、店のすぐ近くでコザ騒動が発生し、現場に遭遇した。米軍が絡む事件・事故が発生すると、米兵は正当に裁かれず、住民の人権が踏みにじられる事例が相次いでいた中、ウチナーンチュの怒りが爆発した。
「当時、大阪万博で経済成長を喜んでいるときに、沖縄では人権がない状況が続いていた。おとなしいウチナーンチュがここまで来たかと驚き、すかっとしたような気持ちでもあった」と振り返る。
沖縄が日本へ復帰した翌年の73年、パピリオンは那覇市前島へ移転した。パピリオンには、多様な立場の人々が集まった。詩人や画家ら文化人たちもいた。喜瀬武原闘争に参加するような労働組合員もいれば、それを取り締まる側である警察の機動隊員、企業や経済団体などの財界人も訪れた。海勢頭は、保守側のパーティーにも呼ばれ、堂々と「喜瀬武原」を歌った。
「(後に知事になる)稲嶺恵一さんや大田昌秀さん、仲井真弘多さん、翁長雄志さんも来ていた。パピリオンは、誰が来てもいいように、一種の公民館として運営した」と話すように、あらゆる人が共有できる場にした。
■3億5000万円の借金
戦後50年を機に「沖縄戦を伝える映画」を沖縄が主体となって作る動きが持ち上がった。それが、1996年に完成した映画「GAMA―月桃の花」につながる。当初、海勢頭はこの映画に音楽担当として携わっていた。
この映画の大きな課題は製作費不足だった。製作委員会を組織し、県や市町村、企業、団体から協賛金・出資金を募った。個人にも1枚2千円の製作協力券(このうち千円は鑑賞券)を販売し製作に充てる計画を立てた。しかし、計画通りには進まずに資金が不足し、撮影は中断した。
そこで立ち上がったのが海勢頭だった。県内外の友人、知人らに支援を呼び掛け、借金して制作費を確保し、何とか撮影を再開した。「とにかく完成度の高いものを作り、興行収入で制作費を支払えるようにしよう。これしか手はない」。そう考えた。
映画を作るには、役者の出演料、撮影スタッフの報酬、機材や撮影地の確保など、膨大な費用が必要だった。背負った借金は、約3億5千万円にまで膨らんだという。製作費の確保だけでなく、出演交渉なども担い、製作責任者となり、何とか完成させた。
「みんな、僕は金を持っていないことを分かっているから応援してくれた。領収書も何も渡さない中でも、お金を貸してくれた。パピリオンを知っていて、みんなが信用してくれたからできた」
完成後、全国各地で上映運動を展開し、主題歌の「月桃」とともに、映画の評判は広がった。県外から平和学習で沖縄を訪れる修学旅行生たちが事前学習で鑑賞する作品としても定着していった。「この映画を見てから修学旅行生が沖縄戦の戦跡を訪れ、ガマでの体験学習もするようになった。苦労して作って良かった」と手応えを語る。
「全ての責任を負い、借金は長い年月をかけて興行収入で払うことができた」とほっとした表情を見せる。「何か一つぐらい、命懸けで取り組み、残してもいいのではないかという思いだった。僕は元々、いつ死んでもいいという思いでやってきた。そういう感覚だからこの映画ができた」と率直に語る。
■危機にある島々の文化
復帰50年が経過しようとしている中で、島々の伝統文化、精神文化の継承が危ぶまれる状況に目を向ける。「復帰50年で、どんどん島の宗教、まつりごとの意味が形骸化した。久高島のイザイホー、宮古のウヤガンもなくなった」。
古来の琉球から続くジュゴン信仰、龍宮神信仰は、平和を大切にする非武、非暴力の思想で、現代の憲法9条の平和主義と通底する考えであると指摘し、著書でも見解を示している。「ジュゴン信仰、龍宮神信仰がいかに大事であるか。龍宮神信仰の平和主義と憲法9条は実は同じであることをみんなに伝えないといけない。非武、非暴力の思想が大切だ」と説く。
新型コロナウイルスの影響が続いているが、収束後を見据え、平和のため、さらなる活動に意欲を見せる。「コロナ禍が収まったら、まずはもう一回、『GAMA―月桃の花』」の上映運動を展開し、戦争をしてはいけないことを伝えたい。(戦争を起こした)間違った日本に戻らないようにしないといけない」と言葉に力を込めた。
(文中敬称略)
(古堅一樹)
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