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歌詞の「君」は誰か 大衆に歌い継がれる「喜瀬武原」への思い 平和音楽家・海勢頭豊さん(1)<復帰半世紀 私と沖縄>


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インタビューに答える海勢頭豊さん=9月30日、糸満市喜屋武(又吉康秀撮影)

 1977年12月12日夕。コンサート会場となった那覇市民会館の客席は埋め尽くされ、熱気に満ちていた。舞台に立つのは、当時34歳で、精力的に活動を続けていた平和音楽家の海勢頭豊(77)。得意のギターを弾きながら歌い、クラシックやラテンなど多彩な曲を披露した中、とりわけ多くの観客に印象を残したのが、この場で初めて発表した「喜瀬武原(きせんばる)」だ。

 戦後の米統治下から72年に日本へ復帰したものの、過重な基地負担が残った沖縄。米海兵隊による県道104号越え実弾砲撃演習の阻止を目的に県民が闘った「喜瀬武原闘争」では、闘争参加者の中から刑事特別法で逮捕された人も出た。コンサートは、逮捕された人たちの裁判を支援するために開いたものだった。

 今では海勢頭の代表曲の一つだが、「曲の形」ができたのは同コンサートの前日。本番が迫る中、何か喜瀬武原闘争に関連した新曲を披露したいと考えながら闘争現場の写真を見た。その後、車で帰宅する途中に交差点を右折した瞬間、メロディーや歌詞が浮かんだという。自宅に帰ってからも創作を続け、コンサート当日、那覇市民会館にあった食堂で最終的に歌詞をまとめ、本番に臨んだ。

 静かなメロディーの中に、悲哀を帯びた曲調と歌詞が人々の胸を打った。

 「喜瀬武原 陽は落ちて 月が昇る頃/君はどこにいるのか 姿も見せず/風が泣いている 山が泣いている/みんなが泣いている 母が泣いている」(「喜瀬武原」1番の歌詞より)

 闘争を鼓舞するような激しい曲ではなく、あえて静かなメロディーにした。「県民の共感が得られるようにしないといけない。長い闘いになると思い、『拳を上げよう』というような歌ではなく、悲しい叙情歌にした。じっくり聞いてもらい、『こうあってはいけないよな』と感じてほしい」との思いだ。

 歌詞にある「君はどこにいる」の「君」とは誰か。

 「闘争で山中に入った君はどこにいるのかということもある。復帰するまでは本土からも応援が来て平和のために闘った。その君はどこにいるのか。もう一つは沖縄の人へも。こういう闘争をやっているのに今、何をしているのかとの思いだ。聞く人によって、うちあたいするように作った」

 「喜瀬武原」は反響を呼び、県内外の平和活動の現場で歌われるようになった。しかし、本人は「できれば、こんな歌は長く歌わずに平和になればいいと思っていた」と語る。「自分の歌がヒットするように努力したことはあまりない。『喜瀬武原』もみんなが集会で歌ってくれれば、それでいい」と平和につなげることにこそ重きを置く。

(文中敬称略)
(古堅一樹)
 


 沖縄が日本に復帰して来年で半世紀。世替わりを沖縄とともに生きた著名人に迫る企画。今回は平和音楽家の海勢頭豊さん。代表曲の「喜瀬武原」や「月桃」に込めた思い、次世代へ伝えたい平和のメッセージなどを紹介する。

(その2)深い悲しみ込めた代表曲「月桃」 非武・非暴力の心、次代へに続く