50年前、米統治下の沖縄で人々が怒りを爆発させた。約80台の米軍関係の車両を焼き打ちした「コザ騒動」から今年で50年。当時米軍からも「おとなしい」「従順」と見られていた沖縄人がこのような行為に出た背景には、沖縄戦から続く哀しみの歴史や、米軍人・軍属による犯罪を罪に問うことができない不条理の蓄積があった。なぜあの事件が起きたのか、その後何が起きたのか、主に女性たちの証言から見つめ直す。
(玉城江梨子)
燃える車 50年前の「コザ騒動」
真夜中の空が真っ赤に染まっていた。外国人車両であることを示すイエローナンバーの車が倒され火柱が上がっている。「たっくるせー(こらしめろ)」「やな(嫌な)アメリカーや」「燃やせ、燃やせ」と叫ぶ人々の声。よくやったと称賛するかのような指笛の音も聞こえる。沖縄で祝いの席で踊る「カチャーシー」を踊っている人の姿も。「コザが燃えている」という知らせを受け、駆け付けたカメラマンの松村久美さん(73)=当時23歳=は「火祭りのようだ」と思った。炎に照られた人々の顔が輝いて見えた。写真を撮るために来たはずなのに、あっけにとられてしばらく写真を撮れなかった。
「戦争でも始まったのか」。近くのクラブで働いていた雛世志子さん(89)=当時39歳=は、通りの騒がしさに気付き、店の外に出た。ネオンがきらめき、1年で最もにぎわうクリスマス前の街の様子が一変していた。大勢の若者たちが何十台という車をひっくり返したり、燃やしたりしていた。騒ぎは嘉手納基地に通じるゲートまで続いており、基地に入ろうとする車が次々に止められていた。車から米軍人を引っ張り出し、無人になった車を何人かで揺すって倒して焼いていた。歩道では老人が「もっとやれ、もっとやれ」と叫んでいた。
1970年12月20日未明。東アジア最大の米空軍基地、嘉手納基地の門前町で起きた「コザ騒動」と呼ばれる沖縄戦後史で最大の民衆蜂起―。
騒動の直接のきっかけは20日未明、映画館やホテル、飲食店などが軒を連ねるコザ市(現沖縄市)の大通り、軍用道路24号(現国道330号)で道路を横断していた住民を米兵運転の車がはねた交通事故だった。軍警察と琉球警察が現場検証にあたったが、付近の歓楽街などから集まった人々は、これまで起きた交通事故での米軍側の処理に不信を抱いており、一帯は騒然となった。さらに事故現場近くで別の米兵による追突事故が発生。興奮した群衆は事故車やMPに石を投げ、MPカーをひっくり返して火を放った。MPは空に向けて数発、威嚇発砲をしたが、それが逆効果となり事態は収拾不能な状況に。
群衆は軍用道路24号と20号(ゲート通り、現県道20号)で、米憲兵や米軍関係の車両を次々と横転させ、炎上させた。午前7時ごろ憲兵の警備で群衆が退散するまで、騒動は約6時間に及んだ。加わった数は5千人ともされる。被害車両は82台。米側56人、地元住民32人の計88人が負傷した。琉球警察は476人、米側は198人を出動させて鎮圧に当たった。群衆の一部は嘉手納基地内にも進入し、21人が現行犯で逮捕された。
「おとなしい」沖縄人 ここまでした背景
「おとなしいと思っていた沖縄の人がここまでやるとは。今まで虐げられ、たまっていたものが一気に噴き出した」と雛さんは感じた。今でこそ、地方都市でよく見かける市街地のようなこの場所で、たった1件の交通事故がここまで大きな騒動に発展した背景には、25年に及ぶ米統治下では全てが軍事優先で住民の安全、人権がないがしろにされてきたことがある。
住民を巻き込んだ地上戦で当時の県民の4人に1人が犠牲になった沖縄。戦後は新たな苦難の始まりだった。沖縄を統治した米民政府は1953年、「土地収用令」を公布・施行。当時の真和志村銘苅(現在の那覇新都心地区)、伊江島、宜野湾村(現宜野湾市)伊佐浜などで、武装米兵を動員し強制的に接収した。56年にはアメリカの沖縄統治を批判しその不当性を訴えた瀬長亀次郎氏が那覇市長に当選したが、米民政府は財政融資資金を凍結するなどして瀬長市政を麻痺させようとした。
米軍人・軍属による犯罪も多発していた。ベトナム戦争が激化する1960年代半ばには年間千件を超え、コザ騒動が発生した70年は960件の犯罪が起きていた。犯罪多発の一方で、米軍人・軍属に関わる交通事故の場合、捜査権、逮捕権、裁判権などは全て米軍当局に委ねられ、沖縄側ではどうすることもできなかった。加害者が無罪になったり、アメリカへ帰ったまま未解決になった例も少なくなかった。
1963年には那覇市内の軍道1号(現国道58号)で青信号の横断歩道を渡っていた中学生が、突っ込んできた米軍トラックにひかれ死亡した。赤信号を無視して人命を奪った米兵は、軍事裁判で「太陽の光がビルの壁に反射して信号が見えなかった」という趣旨の主張をし、無罪になった。
コザ騒動が起きる3カ月前の1970年の9月には糸満町(現糸満市)で、酒に酔った米兵が運転するスピード超過の車が主婦をひき殺したが、12月11日に上級軍法会議は「証拠不十分」として米兵に無罪判決を下していた。
「基地」そのものへの恐怖 蓄積した不条理
「基地」そのものに対する恐怖もあった。
1968年2月にB52戦略爆撃機が嘉手納基地に配備されると、同基地はベトナム戦争の出撃拠点となった。B52はこの年11月に離陸に失敗し嘉手納基地内に墜落・炎上。墜落事故の恐怖は周辺住民だけでなく全県に広がった。
1969年7月には国際的に使用が禁じられていた毒ガス兵器が嘉手納基地内に貯蔵されており、同月にガス漏れが事故が発生していたことを米紙ウォールストリート・ジャーナルが報道。これは沖縄でも大きく報じられ、県民の不安が高まった。世論の反発を受け、米軍は毒ガスの一部撤去を発表した。
土地が奪われ、自治が認められず、事件事故で命が奪われても罪に問うことさえできない。この不条理の蓄積が復帰前の沖縄の姿だった。
沖縄戦から続く哀しみ、痛み、苦しさ
「コザ騒動」の前日の70年12月19日には隣の美里村で毒ガスの即時撤去を求める県民大会が開かれ、約1万人が参加していた。ここでは糸満の主婦れき殺事故の無罪判決についてのも抗議していた。
このようなタイミングで立て続けに起きた米軍関係車両の交通事故。「この前の糸満の事件と同じように無罪判決になるのでは」ー。そこに居合わせた人の間で不満が爆発し、反射的な直接行動が一気に広がった。それは群衆心理による盛り上がりもあったかもしれないが、騒動には不思議な秩序があった。略奪は起きず、死者も出なかった。暴力が人に向かわず外国人車両や建物だけを標的としていた。通り沿いの建物に延焼しないように、火を着ける外国人車両は車道中央に集められた。松村さんは「興奮の中に冷静さがあった」と振り返る。
「コザ騒動」は蓄積していた沖縄の怒りが爆発を表す事件として語られてきた。しかし、松村さんが感じたのは怒りだけではない複合的な感情だった。「それは沖縄戦から続く哀しみ、苦しみ、痛み、悔しさが入り交じったようなものだったのではないでしょうか」
人々の置かれた状況 考える機会を
今年12月12日、沖縄県那覇市の琉球新報社1階で外国車両をひっくり返すアートパフォーマンスがあった。半世紀前に沖縄で起きた「コザ騒動」を考えようと大学生が企画したこのパフォーマンスには批判の声も上がったが、そもそも私たちは「コザ騒動」のことをどれだけ知っているのだろうか。
「暴力はいけない」。米軍関係の車両を焼き打ちにしたという事象だけを取り上げるとそう思う方もいるだろう。しかし当時米軍からも「おとなしい」「従順」と見られていた沖縄人がなぜこのような行為に出なければならなかったのか。その要因や背景に、心を寄せる機会はこれまであっただろうか。50年前の沖縄の人々の置かれた状況がどんなものだったのか、それは今にどう結びついているのか、読者のみなさんと一緒に考えたい。
この企画は琉球新報社とYahoo!ニュースによる連携企画記事です。