集落で住民と兵士が雑居 仲村政子さんの体験 母の戦争(19)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬
現在の南城市玉城親慶原

 玉城村(現南城市玉城)親慶原に日本軍の第9師団(武部隊)が駐屯を始めたのは1944年7月のことです。公民館や民家が日本軍に徴用され、日本兵と住民が集落で雑居するようになりました。住民は陣地構築にも駆り出されます。

 年末に第9師団が台湾に転出した後、第62師団(石部隊)が入ってきます。親慶原で祖母と生活していた仲村政子さん(87)=那覇市=は娘の前原民子さん(61)に当時のことを語っています。

 《石部隊が小さな茅葺(かやぶ)きの家に20人くらい入ってきました。私たちは炊事場みたいなところで暮らしました。おばあさんは牛や豚を飼っていましたが、みんな日本兵に取り上げられました。私たちはカンダバーを食べて生きていたのです。》

 45年3月末、米軍の空襲が激しくなります。親慶原も機銃掃射が繰り返されます。仲村さんと祖母は集落にある自然壕マヤーアブに避難します。

 《戦争になって、部落のはじっこにあるマヤーアブに入っていました。アメリカの飛行機が真っ黒い鳥みたいに飛んできました。》

 昼は壕に避難し、夜は家に戻って食事をする生活を送りました。

 《空襲が始まった後は壕での生活です。夜になると茅葺きの家でカンダバーを炊いてジューシーメーを食べる。食べた後はまた壕に戻るんです。》