おばあさん残し壕を出る 仲村政子さんの体験 母の戦争(20)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
現在の南城市玉城親慶原の集落

 仲村政子さん(87)=那覇市=は1945年4月に米軍が沖縄本島の中部西海岸に上陸する直前、玉城村(現南城市玉城)親慶原の集落にあるマヤーアブに祖母と避難していました。「4、5家族ほど入っていた」といいます。

 この壕にいつごろまで避難していたか、仲村さんははっきりと覚えていないといいます。

 「玉城村史」によると、米軍を迎え撃つ日本軍の移動に伴い、親慶原の住民も弾薬や糧秣の運搬に駆り出されています。子どもを祖父母に預け、危険な弾薬運びをさせられた女性もいました。

 マヤーアブの西側にあるディカシガマに避難していた住民は「付近まで米軍が侵攻し、この壕も危なくなった」との情報を聞き、米軍が接近する5月下旬、ガマを出ます。

 マヤーアブには負傷して寝たきりになっていたおばあさんがいました。同じ親慶原の住民です。米軍の進攻で住民は壕を出ますが、おばあさんを連れ出すことはできませんでした。

 《おばあさんをほったらかしにしてしまった。壕の中で「助けてくれ、助けてくれ」と言っていたが、そのまま逃げてしまった。壕で死んでしまったんでしょう。》

 祖母と共に仲村さんは壕を出て、安全な地を求めます。この体験を娘の前原民子さん(61)に伝えていました。「当時のことを思い出すのは苦しい」と仲村さんは語っていました。