配給物資で命つなぐ 仲村政子さんの体験 母の戦争(22)<読者と刻む沖縄戦>


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現在の名護市二見の集落

 米軍に捕らわれた仲村政子さん(87)=那覇市=は祖母と共に中城村(現北中城村)島袋の収容所に送られます。島袋は沖縄戦中の最も早い時期に収容所が置かれた地の一つで、約1万2千人の住民を収容しました。仲村さんは数日間、島袋で過ごします。その後、久志村(現名護市)二見に移動します。

 《テントが張られていて、そこに座らされました。お菓子か何かを食べました。島袋には2、3日泊まった後、トラックで久志村の二見に行きました。そこにあった茅葺きの家に入れられました。》

 二見は中南部の住民を収容した瀬嵩収容地区内にあり、杉田(すぎんだ)、楚久(すっく)の2集落に分かれていました。「久志村誌」などによると、1945年7月の時点で、杉田で約2200人、楚久で2600人の住民を受け入れています。収容地区で暮らした人々の心情を込めた民謡「二見情話」の生まれた地としても知られています。

 仲村さんが送られたのは杉田で、当時は「東喜(とうき)」と呼ばれていたことを覚えています。「東から来て喜ぶ」が地名の意味という説があります(「名護市史」)。集落内を流れる杉田川に掛けられた「東喜橋」に当時のなごりをとどめています。

 食料は不足していました。

 《アメリカ人がくれる配給の物を食べさせられた。それで命をつなぎました。》

 戦場を離れましたが、生命の危機が続いていました。