祖母、マラリアで亡くなる 仲村政子さんの体験 母の戦争(23)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
名護市二見集落にある東喜橋。収容所が置かれた時代の名残をとどめている

 祖母と共に米軍に捕らわれ、久志村(現名護市)二見の東喜に送られた仲村政子さん(87)=那覇市=は収容地区内にできた学校に通います。学校といっても、校舎はありません。

 《田んぼに生徒を集めて、学校のような形をつくりました。もんぺを着た、女学校の生徒みたいな人が先生でした。》

 この学校で仲村さんは日本の敗戦を知ります。

 《「日本は戦争に負けました」と先生に言われました。この先生が泣いているんです。何で泣いているのか意味は分からない。でも戦争に負けた、戦争は終わったということは分かりました。》

 本島北部の収容地区はマラリアが猛威を振るい、多くの人が亡くなりました。東喜と、二見に隣接する大川はマラリアの犠牲者が多かった地域です。仲村さんもマラリアで苦しみ、祖母は命を落としました。

 《マラリアで、毎日多くの人が死んでいきました。二見の海の周囲に穴を掘って死んだ人を埋めていくんです。私もおばあさんもマラリアになり、おばあさんは弱って死んでしまいました。とても悔しかった。
 おばあさんを埋める時、目印に大きな石を置きました。私は独りになってしまいました。》

 祖母が亡くなり、身寄りを失った仲村さんはその後、二見を出て玉城村(現南城市玉城)當山に送られます。