祖母と共に米軍に捕らわれ、久志村(現名護市)二見の東喜に送られた仲村政子さん(87)=那覇市=は収容地区内にできた学校に通います。学校といっても、校舎はありません。
《田んぼに生徒を集めて、学校のような形をつくりました。もんぺを着た、女学校の生徒みたいな人が先生でした。》
この学校で仲村さんは日本の敗戦を知ります。
《「日本は戦争に負けました」と先生に言われました。この先生が泣いているんです。何で泣いているのか意味は分からない。でも戦争に負けた、戦争は終わったということは分かりました。》
本島北部の収容地区はマラリアが猛威を振るい、多くの人が亡くなりました。東喜と、二見に隣接する大川はマラリアの犠牲者が多かった地域です。仲村さんもマラリアで苦しみ、祖母は命を落としました。
《マラリアで、毎日多くの人が死んでいきました。二見の海の周囲に穴を掘って死んだ人を埋めていくんです。私もおばあさんもマラリアになり、おばあさんは弱って死んでしまいました。とても悔しかった。
おばあさんを埋める時、目印に大きな石を置きました。私は独りになってしまいました。》
祖母が亡くなり、身寄りを失った仲村さんはその後、二見を出て玉城村(現南城市玉城)當山に送られます。