「秘密部隊」の基地で働く 仲村政子さんの体験 母の戦争(24)<読者と刻む沖縄戦>


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幼かった頃の仲村政子さん(前原民子さん提供)

 祖母をマラリアで亡くし、身寄りを失った仲村政子さん(87)=那覇市=は収容地区の久志村(現名護市)二見を出て、玉城村(現南城市玉城)に戻ります。

 家があった親慶原は米軍が占有していたため、同じ玉城村の當山で暮らしました。その後、知念村志喜屋にいた母方のおばに引き取られます。

 《當山にいる私をおばが迎えに来ました。おばに育てられ、私は何とか生き延びました。学校に行くことはできませんでした。14歳くらいまでおばの家で暮らし、すぐに働きました。》

 玉城村にあった米軍基地キャンプ知念でメイドとして働きました。中央情報局(CIA)の拠点である陸軍混成サービス群地区(CSG)が置かれていた基地として知られています。1974年に返還後、琉球ゴルフ倶楽部となりました。

 《同じアメリカ人でも入れず、「秘密部隊」と言われていた基地です。私たちはかんだばーじゅーしーしか食べられないのに、アメリカ人は豪華な生活をしていました。ここで18歳くらいまで働きました。》

 一時、本土に渡り両親と暮らしたこともあります。戦後、つらい体験をした本島南部の戦場跡や祖母が亡くなった北部の東海岸を訪ねることはあまりなかったといいます。

 沖縄戦を振り返り「自分はよく生き残ることができた」と娘の前原民子さん(61)に語っていました。「戦争のことは思い出したくない。でも、どうしても誰かにお話ししたい」という思いを今も抱き続けています。
(次回は11月中旬の掲載です)