糸満市長の當銘真栄(55)は糸満高校の40期。白球を追う高校球児だった。その時築いた仲間との絆が財産となった。
1966年、糸満市武富で生まれた。家業は畳店。當銘は兼城小学校5年の頃から地域の野球チームに所属した。兼城中学校を経て82年に糸満高校に入学。さっそく野球部に入った。
グラウンドだけでなく、国吉の坂や山巓毛(さんてぃんもう)の階段で体力づくりに励んだ。糸満高の先輩でもある栽弘義が率いる沖縄水産と練習試合をしたことがある。「沖水は本気で甲子園を目指していた。体格や技術面の違いを見せ付けられた。目付きも違っていた」と當銘は振り返る。糸満もチームづくりに励んだ。
「鳥かご(バッティングケージ)などはサトウキビ収穫のアルバイトをして自分たちで整備した。破れたボールも縫って使う時代だ」
糸満高校野球部は2011年、夏の甲子園に初出場する。「金銭的には厳しかったが、部員が互いに練習環境を整えてきた。そのことが後輩たちの甲子園出場につながったと思う。僕らの夢を実現してくれた。うれしくて涙が出た」と當銘は語る。
野球に打ち込むだけではない。両親を手伝い、家業を支えてきた。
「時間があれば両親の手伝いなので、友だちとは遊べない。それでも野球を続けさせてくれた両親には今でも感謝している」
卒業後、畳店の仕事が生活の中心となった。青年会活動やPTA活動にも積極的に取り組み、野球部OB会「球友会」の事務局長も務めた。地域や糸満高校の先輩たちから多くを学び、當銘はネットワークを広げていった。
13年、地域の声に推されて糸満市議会議員となる。2期目途中の20年、市長選に出馬し、初当選した。當銘を取り巻く環境は大きく変わったが、野球部や地域活動の中で生まれた仲間たちが支えてくれている。
市長となって1年余。「コロナ禍に翻弄されてきたが、市民と一緒になって難局を乗り切り、糸満市のさらなる発展のため、共に頑張っていきたい」。當銘は思いを新たにする。
八重瀬町長の新垣安弘(65)は29期。バレーボールに熱中しながら、政治に関心を抱く高校生だった。
1955年、東風平村(現八重瀬町)志多伯で生まれた。東風平小学校では野球少年だった。長身を生かし、バレーボールを始めたのは東風平中学校でのこと。71年に糸満高校に入学し、バレー部に所属した。
「バレーボールをテーマにした『アタックNO1』や『サインはV』『ミュンヘンへの道』などのテレビ番組があり、高校生の間でもバレーが人気があった」
グラウンドのコートでフライングレシーブを練習し、顔を擦りむいたこともあった。1973年に開催されたスポーツの祭典「若夏国体」(沖縄特別国民体育大会)の選抜選手としても活動した。
政治には小学校のころから関心があった。
「小学生の時、謝花昇の銅像が再建されたのがきっかけだった。復帰運動が高まりを見せていた時期だった。中学生の時には主席公選や国政参加選挙があり、政治への関心は強くなっていった」
気になる政治家は瀬長亀次郎氏。中学校の卒業文集には「政治家になりたい」と記した。
高校では同級生と政治を論じ合ったことはなかった。学生運動が下火となり、無気力・無関心・無責任の「三無主義」という言葉がはやる中で新垣は政治への思いを募らせた。太宰治や遠藤周作の小説にも親しんだ。
卒業後、「沖縄を出てみたい」という思いに駆られ、19歳の時に上京する。24年間の本土生活の中で政治との接点が生まれた。基地問題や安全保障問題に対する沖縄と本土との意識の相違も感じた。
43歳で帰郷した新垣は2002年に東風平町議に当選し、政治家の道を歩む。民主党県連代表も務めた。県議を経て18年、八重瀬町長に当選した。
「政治家になりたい」という少年期の願いを実現させた新垣は南部の地で地域振興や人材育成を唱える。「自由で伸び伸びした校風」の中で築いた同級生の交友は今も続いている。
(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)
【糸満高校】
1946年1月 開校(16日)、首里分校設立(27日、3月に首里高校独立)
3月 真和志分校設立(9月に首里高校と合併)
5月 久米島分校設立(48年6月に久米島高校独立)
56年4月 定時制課程設置(74年に廃課程)
88年6月 県高校総合体育大会で男女総合優勝
2011年8月 野球部が夏の甲子園に初出場
15年3月 野球部が春の甲子園に初出場