【識者談話】辺野古抗告審 裁判所が権利救済の姿勢示さず(前田定孝氏・三重大准教授)


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前田定孝氏(三重大学准教授)

 判決の「私人と同等の保護を受ける権利」という言い回しに、(埋め立て承認撤回を巡る)2020年3月26日の関与取り消し訴訟最高裁判決の影響を感じる。最高裁判決は「国は私人と同等の地位にある」とし、国が行政不服審査法の禁じる「固有の資格」による審査請求をしたものではないとして、県の訴えを却下した。

 県は今回、「公権力対公権力」の法的争いであることから私人と同等の権利主張は難しいとしても、窮余の策として行政事件訴訟法の取り消し訴訟という形で司法判断をあおいだ。しかし今回も、裁判所はこの種の裁判は認められないと却下した。辺野古の座り込みの現場に「日本政府は『私人』で沖縄県は『公人』ですか?」との掲示があったのを思い出す。

 地方自治体と国との間に法解釈の違いが発生し、地域住民に不利益が及ぶ場合、そこで侵害される権利を裁判所が救済せずしていったい誰が法治主義を実現するのか。玉城デニー知事が陳述したように、本件裁判は「地方自治の理念や尊厳を守る覚悟」を問うものだった。

 地方自治法は紛争解決の手段としてさまざまな関与の制度を創設しているが、15年の翁長雄志知事(当時)による埋め立て承認取り消し処分以来、ほとんどこの法制度が機能してこなかったというのが実際ではなかっただろうか。

 国の関与が争われた場合、裁判所はそこで発生する権利を救済する姿勢を示さない。法制度の趣旨をまともに審査しない判決は、サンゴ移植を巡る最高裁判決で反対意見を付けた宇賀克也裁判官のいう「木を見て森を見ず」の弊に陥る。「私人としての」行政不服審査が「関与」に当たらないことにより、はるかに強力な「関与手段」に転化してしまう。今回の判決の問題性はここにある。
 (行政法)