「沖縄音楽は長生きする」と知名定男が確信した瞬間 仲田まさえの転機となった曲


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復帰50年を迎え、沖縄の歌について語り合った(右から)知名定男と仲田まさえ

>>復帰っ子と戦中生まれ 沖縄を語る 対談・仲田まさえ×知名定男 から続く

 

 沖縄戦中生まれの知名定男と復帰っ子の仲田まさえの対談は、自身のアイデンティティーの確立から沖縄音楽への思い、未来の沖縄像へと話題が広がった。知名から仲田の世代へ、沖縄を思う気持ちがつながっている。

 知名定男 生まれたのは福岡県の筑豊の炭鉱。その後、兵庫の尼崎へ行き、小学校5年まで過ごした。父と母はよくけんかしていた。原因は仕事がないこと。求人募集の張り紙に「ただし、朝鮮人と沖縄人お断り」と書かれていて。学校でも差別された。母親は舞踊、父は古典音楽を教えていた。僕も県人会の集会で三線弾かされたり踊らされたりした。それがとっても嫌でね。要するに、ウチナーンチュであることが嫌だった。

 仲田まさえ 先生は好きで民謡を始めたと思っていたので、三線を弾くのが嫌だったと聞いてびっくりしました。

 知名 小学5年の時に沖縄へ帰ろうという話になり、密航した。父が出稼ぎ中に戦争が始まったので、住民登録ができていなかったから。1956年の夏、戦後最大の台風が近づいている時に船で沖縄へ渡った。僕はうちなーぐちがしゃべれないが、学校はみんなうちなーぐち。それでも、もう差別されなくて済むという気持ちでいっぱいだった。うれしかった。父の実家で暮らすようになって、ある日、具志川の川田に劇団「新生座」が来てね。知っている?

 仲田 知りません。

 知名 おばあ(仲田幸子)もそこにいたんだよ。

 仲田 ええ~!?

 知名 芝居の合間の「のど自慢」に出て、2番になった。審査員は登川誠仁と嘉手苅林昌。その後、登川が家に来て「その子をくれ」と言ってきた。それで即、内弟子になってデビューした。誠小(せいぐゎー)のところで活躍していた頃も三線は好きじゃなかった。好きになるのはずっと後のこと。

仲田まさえ

■音楽通し自由になれた

 仲田 私は小さい頃に舞台に出ていたようですが、物心ついた時には芝居から離れていました。出るのは20歳になってからです。それまではやりなさいとも言われなかったんです。子どもの頃は舞台はそでから見るだけ。だんだんお客さんが減っていくのが分かったので、お芝居はなくなっちゃうなと思いました。高校を卒業する時には東京に行きたいという気持ちがありました。でもおばあちゃんが許してくれなくて。なくなっていくお芝居をやれというのはどういうことだろうと思っていました。

 知名 復帰して本土の情報がリアルタイムで入るようになると、東京に目が行くようになり、東京へ向かう若者が増えた。お前ら間違っているよ、足元を見ろよ、と言っても誰も聞くわけがない。東京でいいと評価されたものがいいという考え方なんだ。時代が。東京でうけることが、東京へ向かう若者の「前に立ちはだかる」「後ろから肩をたたく」ことになると思った。それで本土デビューを決心し、78年に「バイバイ沖縄」を出した。本土でうけたらウチナーンチュも見直してくれるだろうという意図だった。「バイバイ沖縄」は売れた。南こうせつとか宇崎竜童とかが興味を持ってくれて、沖縄関係の曲を作り始めた。願いが多少、かなったかなと思った。

 仲田 高校生の頃は自分が何をしていけばいいのか、東京に行けば分かるだろうと思っていました。憧れですよね。周りに県外に行く人もいれば、留学する人もいる。沖縄よりも外に向かっていました。  沖縄の芝居は歌で伝えるので、民謡を習いたいと思いました。でも、民謡の歌い方と芝居の歌い方は違っていました。どうしようと思った時に、知名先生の音楽に出合ったんです。ネーネーズの「黄金の花」とか「テーゲー」とか。先生の音楽に救われました。

 知名 ネーネーズのレコード発売記念として東京でライブをしたら一斉に人が入ってきた。歌い出したらぼろぼろ泣いている人がいる。ほとんどヤマトンチュ。ちょっと聞いてみたら「懐かしい」って言うんだよ。高度成長期に無我夢中で働いた人たちが50代、60代になった時に窓際族という言葉がはやった。「俺たちは脇目も振らずに頑張ったのに」と思ったのかな。大事な物を置き忘れ、探しに行かないといけない。その探し物がネーネーズの中に感じられたんだろうな。「これは普遍だ、沖縄音楽は長生きするな」と思った。その後、沖縄からポップスのグループがたくさん出た。そのときに報われたと思った。「バイバイ沖縄」をやって良かったと。

 仲田 ポップスを歌う依頼があって、どうしようと悩みました。民謡もちゃんと歌えないのに、ポップスを歌っていいのかという不安です。そのとき、知名先生に「民謡もちゃんと歌えないのに、民謡じゃない歌も歌っていいんですかね」って相談したんです。先生は「誰かに何か言われたら『民謡がちゃんと歌えないからこの歌を歌う』と言いなさい」と。これは褒められていない、頑張れということだなと思って。先生の一言で自由になれて、歌うことが楽しくなりました。

知名定男

■平和感じられる時代に

 知名 復帰50年ね。復帰したら基地はなくなるだろうとは思っていましたよ。ところが一向になくならない。かえって充実している。復帰したことが良かったのかどうかと、いろいろ考えさせられる。50年は大きな節目になるのかな。なってほしいよな。

 仲田 復帰しても差別とかで本土と線が引かれている気がしますが、音楽を通すとちゃんと一つになっていると思います。観光で来る人も沖縄の人の温かさとか歌とかに癒やされると言ってくれます。

 知名 ミュージシャンは沖縄アイデンティティーをものすごく強く認識している。僕が開く知名塾にロックの連中も来る。自分の体を流れている血に民謡があるという認識を持っているみたい。大事にしたいと。今まで継承とか言って、話をしたり演奏したりしていたが、今は逆。若い人たちからもらえるものの方が多い。集まって酒を飲むとき「お前らな、俺を置いてけぼりにするなよ」「どこまでも追い掛けてやるからな」って。同じ次元で話ができるのがいいなと思う。

 仲田 沖縄から配信することができている今は本当に幸せです。その道をつくってくれた先生方に対して本当にありがたく思います。歌を配信することができて、見に来てくれる。東京に出ることはありませんでしたが、それで良かったと思っています。復帰50年でも、何も変わらないかもしれない。でもおめでたい日なので、みんなで盛り上げていきたい。

 知名 復帰後は良かったという時代があまりない。社会的にも音楽界にも激動があったけれど、どの時代が一番良かったかというと…。いっそのこと復帰前の方が良かったと思うこともある。これからは平和とか幸せとかを感じられる時代になってくれればいいね。僕ら芸能人は政治的なことに介入すると良くない。片方から必ずしっぺ返しが来る。内心では思っていても、表に出して言うことはできない。寂しい話だけどね。かすかに、歌の中にメッセージとして入れている。自然が暮らしを生む、自然が歌を生む。作品の中にそれとなく入れてきた。  伝統的に歌われてきた、いわゆる神々の歌は継承者がいなくなってなくなりつつある。でも、必ず蘇生される。誰かの手によって。「作曲家」という呼び方はおこがましく思う。自然の力が蘇生させていると僕は思っている。新しい曲、フレーズなんてもうない。音楽はまん延し、みんな誰かの影響を受けて、自分の頭でつくりかえていく。僕は蘇生なんだと思う。

 仲田 荒波を超えたおばあちゃんや先生が残した文化がある。その文化に癒やされて頑張ろうと思える人がいる。沖縄に来ると癒やされる、ずっとそういう島であってほしい。そのために芝居を続け、歌い続けたいです。 (稲福政俊)