沖縄陸上界も知らなかった!箱根駅伝を復帰前に走った選手の知られざる快挙


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箱根駅伝で使用した「駅伝袋」を今も大事に保管している新城吉一さん。中継所で選手が着替えなどを入れて伴走車に託すための袋で、担当区間や名前が記されている=昨年12月28日、那覇市内の自宅

 「私も箱根を走っています」―。県勢の駅伝成績を振り返る昨年末の本紙連載「巻き起こせ旋風」は12月20日付で、1985年の箱根駅伝に出場した濱里正巳・現宜野湾高監督が県勢初の箱根出場選手と紹介した。その3日後の23日午後、那覇市内の本紙販売店を訪ねた読者の新城吉一さん(83)がなじみの店主に自分の出場歴を伝えた。「あの頃は箱根も全国では有名じゃない。どこかの新聞に『沖縄から出場』と小さく載ったくらい」と垂れ目にしわを寄せて笑い、穏やかな口調で半世紀以上前の思い出を語り始めた。
 

高3で県内頂点

 1938年生まれ。毎日朝と放課後に計20キロを走破するほど「走るのが好きだった」と、八重山農林高2年で陸上を始めた。「距離に対する恐怖心がなかった」と健脚を養い、実業団や大学生も出場する沖縄選手権(56年5月)の1万メートルを34分42秒2で制覇した。

 高校3年で県内の頂点に立った。同年9月の兵庫国体20キロ予選も2位に4分48秒の大差を付ける1時間20分2秒で優勝。指導で石垣島を訪れた36年ベルリン五輪の陸上長距離日本代表の村社講平氏にも目を掛けられ、その後も長らく交流が続いたという。

 卒業後は国場組に入って貿易業務に専念し、2年後に競技を再開した。59年9月、県内長距離界を席巻していた時志為男、新垣健と共に九州各県対抗大会の30キロに出場し、3人の総合で3位の好成績を収めた時のことだ。レース後に国士舘大に通う他県の選手から声を掛けられた。「良かったら国士舘に来ないか?」。記録が伸び盛りの21歳。「東京で本格的にマラソンに転向しよう」。2年後の61年、高みを求めて同大に入学した。
 

区間6位の力走

 当時、関東の新興勢力だった国士舘は3年連続で箱根駅伝11位と、あと一歩でシード権(10位以内)獲得を逃し続けていた。「コーチは死に物狂いで、尻をたたかれた」と厳しい練習に没頭する日々。3~5分間隔で1500メートルを立て続けに10本走るなどスピード強化に努めた。晴れて箱根駅伝で神奈川県の平塚から戸塚までの約20キロを駆ける8区走者に抜てきされたが、当時はまだテレビ放送もなく、「箱根について全く知らなかったから、うれしさも感じなかった」という。

新城さんが保管している第38回箱根駅伝の国士舘大のエントリー用紙。12番に新城さんの名前がある

 迎えた本番。国士舘は初日の往路(1~5区)を12位で終えた。翌日の復路6区で一つ順位を上げ、第7中継所の新城さんは11位でたすきを受け、詰め掛けた観衆の間に飛び出していった。「前のランナーは数分前に出てるから」「後ろ追っ掛けてるぞ」。沿道から声が飛ぶ。「みんなテーブルを出して、飲み食いしながら怒鳴ってくる。毎年見てるから詳しいんですよ」と60年前の光景をまぶたに浮かべ、懐かしそうに回想する。結果、1時間9分28秒の区間6位の力走で前の走者との差を詰め、国士舘は最終10区で10位に上がり初のシード権を獲得した。

後進へエール

 2年の秋に父の病気を理由に退学後、帰省して再び国場組に勤め、一線から退いた。再び箱根を走ることはかなわなかったが、国士舘は次の大会で6位、さらに翌年は3位に。「僕らが10位になり、その後は名門になっていった」と誇らしげだ。

 本格的な競技歴は実質5~6年ほど。まだ米統治下の時代、実業団を経て東京の大学に進学し、1年目で有力ランナーがそろう箱根に出場した異色の経歴は県内の関係者の中でも広くは知られていない。これまで新城さんの箱根出走を把握していなかったという沖縄陸上競技協会の國場馨会長は「この時代に関東まで行って競技力を伸ばし、さらに箱根まで走ったのは本当にすごい」とチャレンジ精神と向上心をたたえた。

 色あせた当時の写真や新聞記事を手に「あの時は箱根に出る価値は全く分からなかったけど、今はみんな知ってる。孫が小学生の時に『おじいちゃん箱根走ったんだ』と言われたりね」と頬を緩める新城さん。にわかに盛り上がる現在の沖縄長距離の選手たちに「自分は日々長い距離を走り、走ることに抵抗がなかった。距離を踏んでいってほしい」と助言を送った。

 (長嶺真輝)

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