戦跡にフェンス「肌で感じる体験こそ大切」 沖縄戦の語り部ら危機感(那覇・識名壕)<ふさがれる記憶-壕の保存・活用の課題>1


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識名壕で、沖縄戦当時の状況を説明する長堂登志子さん(左端)と話を聞く東京都和光鶴川小学校の6年生(長堂さん提供)

 1945年5月下旬、第32軍司令部が本土決戦への時間を稼ぐため南部撤退を決めた。そのころ那覇市識名の識名壕では、看護動員された元瑞泉学徒隊の故・宮城巳知子(みちこ)さんなど女子学徒らに、歩ける患者を連れて南部に移動するよう命令が下った。軍は同時に注射器を渡し、殺害のためと中身を伝えず、歩けない患者に打つよう命じた。

 重症となった沖縄出身の防衛隊の男性に、宮城さんが注射を打とうとした時、男性から話し掛けられ、驚いて注射器をその場で捨てた。男性は壕で米軍の捕虜となって助かったことを後で知った。宮城さんは戦後、識名壕での体験と、軍国主義の過ちを伝え続けた。

 宮城さん亡き後に語り部を引き継いだ、沖縄民間教育研究所所長の長堂登志子さんが大切にしてきたのが、壕に入る体験だった。「体験者ではない私の話は、子どもたちの中に半分も入らない。戦争の生き証人がいない中、戦争の怖さを肌で感じる実体験を通し、子どもたちがどう生きていったらいいか考えることにつながる」

 識名壕を活用してきた長堂さんは、東京都和光鶴川小学校の沖縄での平和学習で講話を担当してきた。同小の6年生は1997年から、看護動員された宮城さんの足跡をたどり、沖縄戦について学んできた。

ずゐせんの塔の前で、子どもたちに戦争の過ちを語る宮城巳知子さん(手前)(東京都和光鶴川小学校提供)

 識名壕の入り口にフェンスを設置した那覇市は「壕全体は安定しているが、子どもなどが立ち入らないよう安全対策のため」と説明する。ただ今後の活用の継続は不透明な状況だ。

 市まちなみ整備課は「平和学習の活動は、不特定多数の侵入を防ぐというフェンス設置の目的には当たらない」との立場だ。一方で「社会的、地域的な観点から立ち入りを行政が決められることではない。今後の対応は流動的で、安全管理の面から落としどころを探っている」との考えも示す。

 識名壕の今後の活用が不透明な状況に、和光鶴川小の大野裕一校長は「97年から毎年、瑞泉学徒隊の足跡をたどり、学習してきたので、急に入ることができなくなり正直、驚いている。識名壕は6年生の学習に欠かせない場所。子どもたちが入れる形で残してほしい」と願う。

 長堂さんは「戦争体験を語り継ぐため、どれだけ大切な壕かを地域の人にも伝えたい。市は識名壕だけでなく、戦争遺跡全般についてどう残し、活用していくのか考えてほしい。その上で、整備して残すものは残す施策を取ってほしい」と望んでいる。
 (中村万里子)


「戦場の天国」識名壕にフェンスが…安全対策のはざま、宙に浮く平和学習<ふさがれる記憶…壕の保存・活用の課題>