1000人の兵士がいた「ことぶき山壕」 那覇市は文化財指定に消極姿勢「崩落の危険性」<ふさがれる記憶…壕の保存・活用の課題>7


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壁とアーチ状の天井がコンクリートで固められた壕の中心部分。壕内には階段もある=2008年12月21日、那覇市田原のことぶき山壕

 那覇市の田原公園にある旧日本海軍・南西諸島海軍航空隊巌部隊の拠点だった「ことぶき山壕」。近くの海軍小禄飛行場(現在の那覇空港)を防衛するため、沖縄戦当時は約千人の兵士がいた。那覇市は1991年に壕を一般公開し、その後も平和学習に活用されたが、2007年ごろからは閉鎖されたままになっている。

 1944年8~12月、巌部隊は地元住民を動員して「ことぶき山」(地元ではカテーラムイ)に本部壕を構築した。壕内の高さ、幅は2メートルで、網目状に伸びる坑道の総延長は約350メートルに及ぶ。10カ所程度あった壕口は沖縄戦の影響などで半減し、4カ所が現存する。内部には作戦室、通信室、暗号室などがあり、司令室のある中央部はコンクリート造りになっている。

 45年6月11日から13日にかけて米軍の馬乗り攻撃を受け、火炎放射器で約300~400人が犠牲となった。斬り込みでさらに犠牲者は増え、生存者は同14日時点で50人超とされた。

 80年に返還されるまで、米軍の那覇空軍・海軍補助施設の敷地内にあった。返還後、土地区画整理事業が進むと遺骨や陶器製の手りゅう弾が多数出土した。

 「壕を掘った跡があり、沖縄戦が見えるのではないか」―。親泊康晴市政下の那覇市は91年6月、「6・23平和ウィーク」に、ことぶき山壕を4日間限定で一般公開した。当時の平和振興室長・宮里千里さん(71)によると、4日間で約千人が訪れた。壕を掘った人たちも現れ「南部から子どもたちが動員されていた」「朝鮮人もいた」などと証言したという。

 96年ごろまで毎年平和ウィークで一般公開され、その後も地元の小学校が平和学習のため、市の許可を得て入壕していた。だが地元の平和ガイドによると、2007年ごろから入壕できなくなった。

 本紙は那覇市の関係各課に経緯を確認したが、詳細は判明しなかった。市議会の12年と20年の議事録から壕内の落盤が激しく、市が「安全性が確保できないと判断した」ため、入壕できなくなったとみられる。

 2006~20年の市議会で市は、ことぶき山壕の文化財指定や保存・活用の方向性について何度も問われている。06年、市は市内で児童生徒が入壕できるのはことぶき山壕だけだとして、活用に前向きだった。だが10年以降、ニービ(細粒砂岩層)でできた壕一帯は「崩落の危険性があり、安全性が確保できない」として、文化財指定にも後ろ向きだ。庁内で壕の保存・活用に向けた議論はないという。

 豊見城市の旧海軍司令部壕もニービでできている。沖縄戦研究者で沖縄国際大元教授の吉浜忍氏は、ニービは風化すると固くなる特徴があり、ことぶき山壕はほかの戦争遺構に比べ「保存状態が良い」と説明する。「コンクリートを使い、司令機能のあった壕だ。市は調査し、文化財に指定すべきだ。市がその価値をどう認識し、議論するかが問われている」と指摘した。
 (比嘉璃子)