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山歩き、ギター弾き…海勢頭豊さん 書いたのは寛徳さん、叱られたのは私…新里米吉さん 前原高校(4)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
グラウンドで開かれた生徒会役員選挙の演説会(第20期卒業アルバムより)

 命の貴さや平和への誓いを歌う「月桃」の作者で音楽家の海勢頭豊(78)は前原高校の17期。音楽と共に生きる海勢頭の歩みは高校時代に始まった。

 1943年、与那城村(現うるま市)平安座で生まれた。実家は代々、龍宮神をまつる神職を継いでいたが、父を沖縄戦で亡くした。

海勢頭 豊氏

 島の自然や風土に親しむ少年だった。「山学校をしては島の御嶽や怪しげな所を探検して回った」

 59年に前原高校に入学し、具志川市(現うるま市)赤野で下宿する。その家で出合った1本のギターが海勢頭の人生を決める。「ギターに触れ、音楽の道に入っていった」。古賀政男の作品を自己流で弾いた。

 この年の6月、宮森小米軍ジェット機墜落事故が起きる。数週間後、現場を訪れた海勢頭は「校舎が焼けただれていた。ショックだった」と振り返る。

 高校では生物クラブで活動し、恩納岳の山中を歩いた。その体験が実弾砲撃訓練阻止闘争を歌った77年の作品「喜瀬武原」につながった。「喜瀬武原にはよく通っていたので歌のイメージはできていた」と語る。

 その頃から沖縄の自然破壊を肌で感じてきた。「山歩き、海歩きが好きだった僕は沖縄の環境が壊れていくのを見ていた。金武湾も汚れていった。自然を守るため、沖縄の清らかな精神文化を取り戻さなければならないと考えた」

 琉球大学に入学し、琉大ギターアンサンブルを創設。70年、コザ市(現沖縄市)中の町にライブハウス・パピリオンを開設し、音楽に打ち込む。「沖縄の清らかな精神文化を取り戻すことが音楽活動の目的だった」と海勢頭は語る。

 95年、多額の費用をかけ沖縄戦を描いた映画「GAMA 月桃の花」を制作した。以来、上映活動とコンサートを続けている。

新里 米吉氏

 海勢頭がギターと出合った具志川市赤野の家を出た後、新たな下宿人となったのが県議会議長を務めた20期の新里米吉(75)である。同郷の海勢頭は後援会長として新里を支えた。

 1946年生まれ。平安座中学校に通っている頃、バレーボール選手として頭角を現す。62年、前原高校に入学。早速、バレー部に入部するつもりだったが、先輩たちは突然、バレー部を解散した。

 2学期になり、新里は生徒会役員に立候補し、副会長となる。その時、2年生で会長となったのが後に県議、国会議員となる照屋寛徳だった。「彼は政治的に先を行っていた」

 忘れられない思い出がある。63年3月、講演で「沖縄の自治は神話」と発言したキャラウェイ高等弁務官を生徒会のビラで厳しく批判したのだ。

 「書いたのは寛徳さんで、僕は職員室にビラを持っていく役目。先生に叱られ、しょんぼりしていたら、1人の先生が『気持ちは一緒だからな』と声を掛けてくれた。沖縄中がキャラウェイに憤っていた。おとがめはなかった」

 2年になった新里はバレー部を再興し、キャプテンとしてチームを引っ張る。64年、沖縄大会を勝ち抜き全国高校総体に出場した。

 琉球大学でもバレー選手として活躍。復帰運動にも参加した。単位取得のため卒業を1年延ばし、沖縄の政党や労働組合、祖国復帰協議会に出入りした。「政党や労組幹部と出会い、多くのことを学んだ。この1年がなければ労働、政治運動の道に進まなかった」

 卒業後、教師となった新里は西原高校など赴任校でバレーボールを指導した。90年に高教組委員長に就任。2000年に県議となり5期20年務めた。

 さまざまな顔を持つ新里の出発点は高校時代にあった。現在の役職は「『月桃』歌碑建立実行委員会」の委員長。「月桃」の歌碑を西原町に立てる運動のまとめ役として海勢頭を支えている。

(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)


 

 【前原高校】

 1945年11月 開校。高江洲初等学校校舎で授業を開始
 46年3月 与那城村(現うるま市)西原に移転(現与勝中学校)
 58年6月 具志川市(現うるま市)田場の現在地に移転
 73年3月 春の甲子園に出場。夏の甲子園にも出場(8月)
    5月 若夏国体で女子ソフトボール、男子バレーボールが準優勝
 80年 定時制が閉課程
 96年 夏の甲子園に2度目の出場