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「琉球料理はぬちぐすい」言葉と知恵と心を後世へ 琉球料理家 山本彩香さん(2)<復帰半世紀 私と沖縄>


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復帰前後の状況などについて語る山本彩香さん=豊見城市内の自宅(ジャン松元撮影)

▼(1)沖縄料理は危機にある…チムグクル「見失っていないか」 から続く

 

 

 1935年4月1日、東京で山本家の第4子「山本彩子」として生まれた。2人の姉は病死した。兄と弟がいた。2歳の時、貧困が原因で実母の姉崎間カマトの養子となり、那覇の辻町で暮らすようになった。

 養母カマトは1907年、明治期の那覇生まれ。崎間家は那覇士族で裕福だったが、時代とともに家計は厳しくなり、カマトは16歳の時に自ら辻に入って尾類(じゅり)になった。尾類は芸事だけでなく料理の腕も求められた。カマトは首里王府の「ほーちゅー(包丁人)」と呼ばれた料理人に手ほどきを受けた尾類の津覇ウトゥから、料理を習った。幼い頃に食い道楽の那覇で培った味覚もあり、食に関しては辻でも抜きんでていた。

 一方でカマトは奔放な性格で、山本は「いい意味でも悪い意味でも振り回された人生だった」。山本がまだ幼少の時、カマトの賭け事が原因で今帰仁村玉城(たもーし)に移ることになった。今帰仁では「尾類ぬ子(くゎ)」といじめられ、今帰仁国民学校、その後転校した高嶺村(現糸満市)の高嶺中等学校でも指を差され続けた。次第に学校から足が遠のいて、畑仕事を手伝うようになった。「子どもの頃は一人でばっかりいたね。今でも夕日を見るのは嫌なんだよ。あの色は泣いているように見える」。80年たっても、当時の寂しさは山本の中に残ったままだ。

 ただ今帰仁で経験した沖縄戦は、養母カマトの食の才で「ひもじい思いをしたことはなかった」。カマトは山本が外出するとき、必ずフィル(ニンニク)とンムクジ(芋くず)、クルザーター(黒糖)を持たせた。戦火が激しくなり、山中に身を潜めていたときには、豊富にあった湧き水で芋くずと黒糖を混ぜて飲んだ。腹持ちがよく、黒糖にはミネラルが含まれていて栄養も取れた。「食べ物がそのまま体を作るということを、カマトから経験として教わった」

連れて帰れなかった実父

 

36歳で故島袋光裕氏から琉球舞踊の免許皆伝を受けた山本彩香さん。東京の国立劇場で一人舞台も務めた(本人提供)
養母の崎間カマトさん(山本さん提供)

 47年。カマトの結婚で高嶺村に移り住んだ。沖縄戦で「くしちはんだー(戸籍が焼かれ無戸籍になった人)」になった山本は「玉城綾子」になった。

 山本は5歳で始めた舞踊を続け、25歳で島袋光裕氏に弟子入り、新人賞を受賞して舞台に立ち、身を立てた。その数年前の23歳の時、山本は実父の山本松五郎を訪ねて上京した。

 実父は八王子の老人ホームにいた。山本は「親孝行がしたい。離れて暮らしたくない。沖縄に来ないか」と話したが、当時はパスポートが必要だった沖縄に、父親を連れ帰ることはできなかった。結局一緒に暮らすことはかなわないまま、実父は84歳で他界した。

 50歳。国立劇場で作田節(ちくてんぶし)の一人舞台に出演するため東京に出た。何となく気になって自分の戸籍を探すと、江東区の役場で出生時の山本の戸籍を発見した。義父の玉城に報告すると、「本当に名前と今の名前が違っていては、ご先祖様が引き上げようと思っても気付かれない。へーくなーのーせ(早く直しなさい)」と勧められ、「山本綾子」に名前を戻した。

 ちなみに現在の琉球料理家としての「山本彩香」の名付け親は、店の常連客ら。「料理は彩りと香りが大事だ」と名を変えた。

東京のホテルオークラで開催された沖縄返還20周年記念レセプションで、竹下登元首相(右)に手作りの豆腐ようを勧める山本彩香さん=1992年5月15日(本人提供)

失われていく肝心

 

 最初に危機を感じたのは、戦後のアメリカ世。塩分が強いポークなど米国の食材が入ってきた。変わりだしたのは食材だけではない。復帰への機運の高まりは沖縄以外への興味を高めたこともあってか、琉球料理は次第に食べられなくなっていった。

 「日本料理は裏ごしをするが、琉球料理は一物全体という考え方で繊維も丸ごと食す。琉球料理はぬちぐすいだ。後世に残さなければ」。強い焦りと責任感を感じ、58歳で琉球舞踊を引退、琉球料理の継承にさらに心血を注ぎ始めた。

 それでも県民の琉球料理離れは止まらない。時代とともに県外、多国籍の料理を簡単に食べることができるようになった。「琉球料理の雰囲気だけを残した、全く別物の沖縄料理ができてしまった」

 料理店でよく目にする「ちゃんぷるー」。山本によれば、正しくは「ちゃんぷーるー」だという。しかもうちなー豆腐(島豆腐)が入っていなければ「ちゃんぷーるー」とは言わない。他にも豚を塩漬けした「すーちかー」は、正しくは「すーちきーじし」という。「文化は言葉からなくなっていく。意味が伝わればいいということではない。言葉、その次は知恵、心が失われていく」。焦りは年齢を重ねるほど強くなっていく一方だ。

 

人気、手軽さの一方で

 

 アメリカ世、復帰を経て、沖縄は今、国内でもトップクラスの人気の観光地。沖縄の食にも注目が集まり、インターネット上にはいろいろなレシピが公開されている。スーパーなど店頭にはインスタント食品も並んでいる。一見、沖縄の料理が身近になったように感じる。

 「共働きで忙しくしている家庭が多いから、手軽に作れるようにということなんだろう。琉球料理に光が当たるのはいいことだが、琉球料理の良さは、その食事がそのまま健康な体を作る、ぬちぐすいであることだ」

 化学調味料を使った作り方は本来の作り方ではなく、かつてアメリカ世で塩気や油分の多い食材が入ってきたときのように「全く別物の料理」になってしまってはいないか。頭を悩ませている。

 「(琉球舞踊の師)島袋光裕先生は、私に『技をもてあそぶと心を失う』と教えてくださった。料理も同じこと。おいしさの追究でいろんな調味料を使っているのだろうが、ぬちぐすい、と言える料理になっているのかどうか。その土地にある素材を調味料として使ってほしい」。時代を経て、琉球料理は再び危機にひんしていると感じている。

(左から)豆腐よう、シャコガイの豆腐ようあえ

私にできることは

 

 新型コロナウイルス感染症の影響で、社会は混沌(こんとん)とした。「世(ゆ)ぬ先(さち) 見(ん)ーちゃるちょー めんそーらん(世の中の先を見た人はいない)。誰もこうなるとは予想していなかった。『琉球人』と差別されていた沖縄がここまで人気を集めることも、あの時には分からなかった。落ち込んでばかりいても仕方ない」

 山本は今でも家にいる時は多くの時間を台所で過ごす。「暑い沖縄で、冷蔵庫がない時代に、沖縄の人たちはいろんな工夫を凝らした。だから沖縄には保存食がいくつもあって、それは当時の人たちの知恵の結晶。保存食を販売するまちやぐゎーをやりたいの」

 医食同源、「ぬちぐすい」の琉球料理を愛し食してきた山本は、今も活発で行動的だ。「沖縄には『老い先短い』なんて悲観的な言葉はない。代わりに、見(ん)ーちゃる世(ゆ)どぅ 長(なげ)ーさる(見てきた世の中が長い)という黄金言葉がある。長生きした分の知恵を使って、琉球料理をどうにか残していかなきゃいけない」。戦争、アメリカ統治など、年寄りはいろんな苦労とつらい経験をした。でもそれを乗り越えてきたとの意を込める。

 山本はこう続けた。「今はコロナで人と会えず、いつこの状況が終わるかも分からない。心配していても仕方がない。昨日と今日、似たような日だけど、ちょっとの工夫で明日は今日より少しいい日にできる。にちにいまし(似ているけれどさらにいい)」

 今春に始まるNHK連続テレビ小説の舞台は沖縄。この地がさらに脚光を浴びることは間違いない。「間違えた言葉や情報が発信されないか心配ではあるけど、私にできることは作って食べてもらうこと。一つでも多く、後世に琉球料理とチムククルを残していく」。言葉に力を込めた。
 

 (文中敬称略)
 (嘉数陽)