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琉球料理は危機にある…「チムククル見失っていないか」 琉球料理家・山本彩香さん(1)<復帰半世紀 私と沖縄>


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復帰前後の状況などについて語る山本彩香さん=豊見城市内の自宅(ジャン松元撮影)

「琉球人がいるよ」。1958年、琉球料理家の山本彩香(86)が23歳の時、幼くして別れた父親を探しに東京へ出た時のこと。列車に乗ると何人かがこそこそ話をし始めた。沖縄に対する差別意識の強さを感じたが、劣等感はなかった。「料理や舞踊、チムククル(肝心)を感じさせるうちなーぐちなど、沖縄には独自の文化がある」

自身の沖縄出身という矜持(きょうじ)は差別を意に介さないほどだった。その誇るべき沖縄が受け継いできたものが失われつつあると焦りを感じている。

川崎に働きに出た実母は東京生まれの父と出会い結婚し、彩香を生んだ。さげすまれていた沖縄出身者と父が結婚できたのは「父も当時、『不吉』と差別された双子だった」からだという。家は貧しく、山本は2歳で母の姉崎間カマトの養子になった。戦前まで那覇随一の遊郭だった「辻(ちーじ)」で、料理の腕がぬきんでていた尾類(じゅり)の養母に味覚を鍛えられた。

85年、琉球料理店「穂ばな」を那覇市に開店した山本は、琉球舞踊家としての顔も持つ。「琉球舞踊は継承者がたくさんいた。でも琉球料理は既に風前のともしびだった。現在は全ての店を閉じ、沖縄の保存食などを販売する店を始める予定だ。

復帰後、著しく観光業が成長した沖縄。メジャーになった郷土の料理について「心を見失ったものになっていないか」と懸念を示す。

 (文中敬称略)
(嘉数陽)


沖縄が日本に復帰して今年で半世紀。世替わりを沖縄とともに生きた著名人に迫る企画の19回目は、琉球料理家の山本彩香さん。彼女が捉える琉球料理やうちなーぐちを通して沖縄の味や心の継承を考える。

 

 

 

 


▼(その2)「琉球料理はぬちぐすい」言葉と知恵と心を後世へ に続く