前原高校の校庭に集結して「沖縄を返せ」を歌う人々。祖国復帰協議会の集会で「頑張ろう」と拳を突き上げる参加者の中に19期生の照屋寛徳(76)もいた。
「行進が高校の前を通ると聞き、首謀して招き入れた。私も『平和な沖縄の未来をつくるため、復帰運動に参加しよう』と呼び掛けた」と振り返る。
1945年7月、サイパンの収容所で生まれた。前原高校に通ったのは復帰運動が盛り上がる60年代。学園祭で復帰の内実を問う展示をし、ガリ版刷りの同人誌に書いた内容を校長に問題視された。担任教師の資質に疑問を感じて授業をボイコットし、卒業式のフォークダンスの運営を巡って校内でストライキも打った。「女生徒と手をつなぐチャンスのない男子が生じていた。そんなことにもいちゃもんを付けた」と笑う。2年で生徒会長も務めた。
理不尽な米軍支配を生で感じていた。オートバイの修理工場で働いていた同い年の友人が大やけどを負った。「油まみれの作業服に、米兵が面白半分で火を付けた。耳が焼け落ちるほどの大けがだが、米兵がどうなったのか分からない。悔しかった」
米軍関係者による事件・事故が身近にあり、適正に裁かれないことも少なくない。これが沖縄の現実だった。
琉球大学に進学し、弁護士になった。70年12月の「コザ騒動」の弁護団に加わるなど、沖縄の不条理と向き合う。「最高裁の司法研修所に行っている時に事件があった。沖縄に戻ると、翌朝の現場には黒焦げのYナンバー車が転がっていた」。82年に提起された嘉手納爆音訴訟にも参加した。県議を経て95年に国政に転じ、参院議員1期、衆院議員を6期務めて昨年、引退した。
比例代表並立制となってからも小選挙区で当選し続けた。「米軍支配へのあらがいがエネルギー源になった。ウチナーンチュの人間としての尊厳を確立するために頑張ってきたことを有権者が理解してくれた。感謝している」
「学園の民主化」などを求め、校内にバリケードを築いたのは山城博治(69)だ。復帰後も在沖米軍基地が残ることなどが決まり、復帰の内実が問われた時代だ。
1952年生まれ。幼少時から父の戦争体験を聞いた。17歳で防衛隊にかり出された父は本島中南部で弾薬運びなどに従事。少年たちは爆雷を背負い、戦車の下に潜り込む任務を負わされた。「米軍が戦車の前後に機銃兵を配置し、自爆攻撃ができなくなって父は命を拾った。糸満市摩文仁で爆弾の破片が背中や太ももなどを貫通し、動けなくなっていたところを米軍に保護された」と語る。
前原高校では2年の時に生徒会長を務めた。生徒が米兵に襲われ、けがをする事件があった。「校庭で抗議集会も開かれた。ストライキに多くの生徒が賛同したのも、やむにやまれぬ気持ちを共有していたのだと思う」と語る。
69年の沖縄返還合意を山城たちは「まやかしの祖国復帰だ」と批判した。安保反対、返還協定反対、学園の民主化の3要求を掲げ、机や椅子を積み上げて二つの教室を封鎖した。
この騒動で除籍処分となった。処分を言い渡される日、憤慨した父は学校に姿を見せず、母が頭を下げた。自宅へ戻るタクシーの車中、母は「頑張れよ」とだけ声を掛けた。「思いやりが胸にしみた。親不孝はできないと思った」
働きながら大学入学資格検定(大検)を受けるため71年に上京したが、72年5月15日の復帰は沖縄で迎えた。雨の与儀公園でくるぶしまで泥につかり「返還協定粉砕」を叫んだ。その年の大検に合格し、法政大へ進学。82年に県庁に入る。県職労副委員長などを経て沖縄平和運動センターで議長を務め、基地問題に向き合う県民の最前線に立った。
「幼い頃に聞いた父の戦争体験、そして高校時代に『こんな復帰でいいのか』と悩み、闘った経験が自分をつくった。今後も沖縄戦にこだわり、戦争につながる動きにあらがっていく」と語る。
(文中敬称略)
(中部報道グループ・宮城隆尋)
【前原高校】
1945年11月 開校。高江洲初等学校校舎で授業を開始
46年3月 与那城村(現うるま市)西原に移転(現与勝中学校)
58年6月 具志川市(現うるま市)田場の現在地に移転
73年3月 春の甲子園に出場。夏の甲子園にも出場(8月)
5月 若夏国体で女子ソフトボール、男子バレーボールが準優勝
80年 定時制が閉課程
96年 夏の甲子園に2度目の出場