2月24日のロシア軍によるウクライナ侵攻は全世界を震撼(しんかん)させた大事件だ。この大事件を2年前に予言していた本がある。著者はロシアの政治学者アレクサンドル・カザコフ氏だ。ソ連時代末期、筆者が外務省の研修生としてモスクワ国立大学に留学したとき哲学部科学的無神論学科で机を並べて勉強したのがカザコフ氏だ。
ソ連崩壊について書いた拙著「自壊する帝国」(新潮文庫)の主要な登場人物でもある。カザコフ氏は現在、プーチン与党「公正ロシア」の幹部で、「ドネツク人民共和国」顧問を務めている。現在、最激戦地になっているドンバス(ウクライナのドネツク州とルガンスク州)の現地実情に通じている。
カザコフ氏は、2020年に「北の狐(きつね) ウラジーミル・プーチンの大戦略」(邦訳「ウラジーミル・プーチンの大戦略」)を上梓(じょうし)した。同書でカザコフ氏が強調しているのは、ロシアのプーチン大統領が自らの戦略を隠す理由だ。米国は強いので事前に大戦略を公表してもそれを強行することができる。対してロシアは弱いので自らの意図を隠す必要があるのだ。
だから世界からプーチン氏は本心を語らぬ腹黒い人物と受け止められる。そして、カザコフ氏はウクライナ問題についてプーチン氏の戦略を推定してこう述べる。
<具体的な例を挙げて説明しよう。ウクライナとドンバスについてである。これらの地域に対するプーチンの計画と戦略を知っていると言える者はいるだろうか? 例えば、もし近い将来にドンバスを、そしてその後、崩壊の時を経てウクライナ全体を一部ずつロシアに統合するつもりだとプーチンが公然と宣言したとしたら、この戦略的な目的の達成は容易になるだろうか? 無論、否である。すべての敵、反対者、そして慎重すぎる友人たちにさえ、プーチンの「グレートゲーム」を破壊するためには、どこに反撃したらいいのか、わかってしまうだろうからだ>(アレクサンドル・カザコフ[原口房枝訳]「ウラジーミル・プーチンの大戦略」東京堂出版、2021年、44~45ページ)。
プーチンは今回、ウクライナに軍事介入したことで、大戦略を一歩前に進めた。カザコフ氏が本書に記しているように、今後、プーチン氏は、ウクライナをいくつかの小国家に分断して、時間をかけてロシアに併合していくことを考えているのだと思う。
カザコフ氏は、プーチン氏の心の中にあるロシア地図が、現行のロシア憲法で定められたこの国の版図とは異なると強調する。
<プーチンの心の眼に映し出され、同様にごく普通のロシア国家の平均的な民にも見えている「心の地図」は、ロシア連邦のそれでは決してなく、ロシア帝国の地図なのだ>(前掲書152ページ)
プーチン氏は、「心の地図」を現実に移し替える作業を戦争という手段によって開始したのだ。プーチン氏が国際社会の圧力に屈して、ロシア帝国の復活を諦めることは考えられない。プーチン氏の認識では現在のロシアの版図がソ連崩壊という歴史的悲劇の故に不自然に縮小しているのである。
まずは、米国を庇護(ひご)者としているウクライナの現体制を打倒し、ロシアと協調的な新政権を作ろうとしている。もちろん軍事力を用いたこのような暴挙は厳しく弾劾されねばならない。しかし、ロシアと交渉するに当たってプーチン氏の大戦略を知っておくことは重要である。
(作家・元外務省主任分析官)