中城村南上原のミナミ保育園で11日に開かれた園児らの誕生日会。保育士の田場こころさん(24)=沖縄市=がピアノ演奏するお祝いの曲が会場に響いた。鍵盤をたたいて自ら奏でるメロディーだが、聞き取りにくい音域がある。感音性難聴のため、両耳に補聴器を付け、相手の口の動きで言葉を読み会話をする。高校卒業後、同園で保育補助の立場で働き始め、周囲の協力を得ながら昨年、念願の保育士資格を取得した。難聴を理由に何度も困難に直面した。「資格を諦めそうになったが、多くの人に支えられた」。感謝を胸に、子どもたちの成長を見守っている。
4歳のとき、保育園の伝言ゲームで友達の声がよく聞こえなかった。感音性難聴の診断を受けた。小学生になると、障がいの等級は3級(両耳の聴力レベルが90デシベル以上のもの)になった。大人数での会話は言葉として聞こえず、特定の聞き分けが難しい。
中学校では支援員に授業内容をメモしてもらった。高校でも授業はほとんど聞こえず、板書を書き写し、聞き取れない内容は友人に尋ねた。後れを取らないよう「提出物などの課題は、とにかく真剣に取り組んだ」。
子どもが好きで、中学生から保育士を志すように。高校卒業後は保育補助として働くため複数面接を受けるものの、難聴を理由にかなわなかった。「次がだめだったら、保育士は諦めよう」と臨んだのがミナミ保育園。“みんな違ってみんないい”を園の保育テーマに掲げていた。3度面接を重ね、採用が決まった。比嘉真也副園長(42)は「聞こえない分、目配りでカバーするなど工夫し、柔軟に対応してもらっている。子どもたちも、障がいを理解する大きな経験になっている」と語る。
高校卒業後、ミナミ保育園で働き始めて4年がたつと、田場こころさん(24)=沖縄市=は保育士資格を取るため浦添市の沖縄学院に通い始めた。平日は仕事を終え、午後6時半~8時半に受講。土日に授業が入る日もあった。感音性難聴のため聞き取りは難しかったが、知人の支援も得られた。
一方、勤務園とは別で実施する必要のあった20日間の実習先を見つけるハードルは高かった。電話のやりとりが難しく、比嘉副園長が代わりに用件を伝えたが、難聴を理由に断られることが続いた。「ショックはあった。1人なら続かなかったが、周りの支えがあり頑張ろうと思えた」。粘り強く探し、無事決まった実習先でも「障がい者としてでなく、保育士を目指す1人として」経験を積んだ。昨年9月、資格を取得。夢だった保育士としての歩みが始まった。
4歳児18人の担任だ。幼い頃からピアノ教室に通った経験も生き、ピアノ担当でもある。高音は聞こえにくいが、経験を頼りに楽譜を読み鍵盤に向かう。
園児たちの変化もあった。高い声が特に聞き取りづらく、ある日、遠くから園児に呼ばれていることに気付かなかった。「それを見た別の子が、私を呼んだ子に『こころ先生を呼ぶときは、肩をとんとんするんだよ』と伝えてくれた」。マスクをずらして口の動きを見せて話してくれる園児もいた。子どもたちが、障がいを少しずつ理解し始めたことを実感する。
コロナ禍のマスク着用で、口元の読み取りが難しい分、周囲の協力の重要性は増している。支えられて実現した保育士資格の取得。夢の職場で働く喜びに加え、自分に伝えられることがあるのではないかとも感じている。「目に見えないため、難聴は理解されるのが難しい面もある。社会へさらに理解が広がれば、障がいのある人も過ごしやすい環境になる」と願う。
子どもたちの笑顔に囲まれつつも忙しい毎日だ。手話の習得という次なる目標を掲げ「個性や特徴を理解し、子どもの気持ちをくみ取れる保育士になりたい」と真っすぐな目線で語った。 (吉田早希)