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家庭教師のバイトしながら…金武正八郎さん、グローブ買えずに空手部へ…金城勉さん 前原高校(11)<セピア色の春―高校人国記>


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校内の反戦集会に集まった生徒ら=1970年

 元県教育長の金武正八郎(72)は前原高校の23期。厳しい生活環境の中で3年間学んだ。

金武 正八郎氏

 1949年、具志川村(現うるま市)平良川で生まれ、祖父母に育てられた。65年、前原高校に入学。この年、祖父が他界し、大きな借金が残された。金武はアルバイトをしながら学校に通う。

 「普天間に住む親類の子の家庭教師をした。小中学生に教えながら自分も勉強した」と金武。その頃から子どもを教えることが好きで、後に教職を志すことになる。

 大学進学を目指す生徒が集まる理数クラスで学んだ。受験勉強に励む先輩や同級生の影響を受けたという。「先輩たちはいつも英単語帳を持ち歩いて勉強していた。先生方も受験に熱心だった」と振り返る。寮で生活する平安座島など島しょ地域の生徒は特に勉学に力を入れていた。

 施政権返還に向け、沖縄は激動の最中にあった。隣のクラスは復帰の在り方をめぐって活発な討論を繰り広げ、テレビ局の取材も入った。金武のクラスは冷静に事態を見つめていた。

 「僕たちは割と冷めていた。正論だけ言っても仕方がない。理想を追い掛けるだけでいいのか、という考え方もあった」

 68年、前原高校を卒業し琉球大学に進学。72年、教師として平安座小中学校に赴任した。石油備蓄基地(CTS)建設問題が島を二分し、金武ら若い教師は建設反対運動に動員された。その後、高校教諭となり、久米島高校、名護高校、コザ高校などに赴任。40代半ばから教育行政に関わる。

 2009年、県教育長に就任。在任中、高校球児の活躍、美ら島沖縄総体開催という華やかな出来事があった。一方でトラブルへの対応にも追われた。「やりがいがあった。中でも特別支援学校の分教室を3高校で設置できたことが思い出深い」と金武は語る。

金城 勉氏

 県議で公明党県本部代表の金城勉(70)は25期。「皆がひんすー(貧乏)だった。そこからはい上がろうともがいていた」

 1951年、具志川村塩屋で生まれた。7人きょうだいの三男だった。小学校3年の時、父が早世し、家族はたちまち困窮する。子を育てるため、懸命に働く母を見て金城は育った。

 「母は四六時中、ばたばたしていた。中学を卒業後、軍雇用員となった長男兄貴が親代わりとして僕の面倒を見てくれた」と金城は語る。自身も学校から戻れば畑に出た。「部活動など、ぜいたくな話はできなかった」

 67年、前原高校に入学。バス賃はなく、4キロ近くの通学路を徒歩で通った。高校生になり、ようやく部活動に励むことができた。

 「本当は野球部に入りたかったけれど、グローブやスパイクが買えないので空手部に入った。一番安い空手着を買ったら、一度洗濯しただけで縮んでしまった」

 学内では復帰問題に強い関心を持つ生徒がいたが、金城はやや距離を置いた。「さまざまな事件・事故はあったが『米軍基地ノー』というところまで政治的には成熟していなかった。軍雇用員として生活を支える兄のことも心にあった」と当時の心境を回想する。

 高校卒業を控え、母親に懇願して、はやりの革靴を買ってもらった。ところが一週後、学校で破けた靴にすり替えられた。「あの時は母親に合わせる顔がなかったね」と金城は語る。苦い思い出だ。

 一浪の後、琉球大学に入学。先輩との交流の中で金城は政治に目覚める。卒業後、会社勤めを経て、沖縄市の胡屋十字路近くで古書店を開いた。94年、沖縄市議会議員となり、2000年に県議に転じた。

 「早く母親を楽にさせたいという思いが強かったね」と金城は高校時代を振り返る。母の苦労、経済的に厳しい境遇を見つめながら学んだ3年間だった。

(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)


 

 【前原高校】

 1945年11月 開校。高江洲初等学校校舎で授業を開始
 46年3月 与那城村(現うるま市)西原に移転(現与勝中学校)
 58年6月 具志川市(現うるま市)田場の現在地に移転
 73年3月 春の甲子園に出場。夏の甲子園にも出場(8月)
    5月 若夏国体で女子ソフトボール、男子バレーボールが準優勝
 80年 定時制が閉課程
 96年 夏の甲子園に2度目の出場