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笑わせることが快感だった 「ふりあしびー」が今につながる 「ひーぷー」こと真栄平仁さん 前原高校(12)<セピア色の春―高校人国記>


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1980年代の朝礼風景(42期卒業アルバムより)

 ラジオパーソナリティー、タレント、劇団代表と多彩な顔を持つ「ひーぷー」こと真栄平仁(53)は前原高校の42期。「エンタメが好きで、イベント、舞台、お笑いをつくってきた。その基礎は全部、高校時代に得たものだと思う」

 1969年、具志川市(現うるま市)安慶名で生まれた。いじめられても、仕返しをしなかったほど「おとなしい子だった」という。周囲の子が野球を楽しんでいる時、数人で自転車遊びに熱中した。

 「栄野比のごみ捨て場からハンドルやフレーム、タイヤを拾ってきて、自分で自転車を組み立てていた」。何もないところから素材を集めて形にする。創作活動の土台は少年期に築かれた。

 84年、前原高校に入学する。当時の雰囲気を「面白い人が偉い、格好いいという感じだった。クラスの中でも誰が一番面白いか、話題になった」と振り返る。

 皆が競うように面白いことに挑んだ。その最前線に真栄平がいたわけではない。「僕は目立つタイプではない。自分から前に出ることはなかった」と回想する。

 生徒会長を中心に学校行事を盛り上げるグループの一員としてコントのアイデアを練った。「面白いことを考え、人に伝えて笑わせることに快感があった」という真栄平は裏方に徹していた。

 高校2年の時の学園祭で劇の台本を書いた。「学園もので、ちょっと感動させるストーリーだった。主人公が死んでしまう場面で、サイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』を流した」

真栄平仁氏

 劇は好評だった。感動で涙を流す生徒もいたと聞き、真栄平は手応えを感じていた。高校3年の時には学内でバンドを組み、舞台に立った。

 生徒は教師の振る舞いも面白がった。授業中、「だあ、だあ」と言って言葉に詰まる教師に「あだだだ」とあだ名を付けた。こんな教師もいた。「数学の教師は教室に入ってきた犬に向かって『今、授業中だよ。出なさい』とっていた。楽しかったな」

 卒業後、琉球大学短大部、沖縄国際大で学んだが、普通に働こうとは思わなかった。「スーツを着て、タイムカードを押す自分の姿をイメージできなかった」と真栄平。エンタメ、お笑いへの思いを募らせた。

 大学を卒業し、高校時代のバンドに加わって活動する。コントも始め、友人の結婚式の2次会でネタを披露した。その時生まれたコンビが「ダーティービューティー」。相方の金城幹雄は高校時代の同級生だった。

 96年に事務所をつくり、2人はプロデビューを果たした。真栄平は27歳になっていた。「親に土下座して『30歳になるまで売れなかったらやめる』と説得した」。しかし、思うように売れず、30歳でコンビを解散し、「劇団O.Z.E」を旗揚げした。再び両親に土下座した。「35歳になるまで売れなければ…」

 5年ほど苦しい時期が続いた。そんな頃、旧知のラジオパーソナリティー玉城美香から連絡を受けた。産休でラジオ沖縄(ROK)の番組を休む間、週に1回、代役を務めることになった。2005年には「ティーサージパラダイス」が始まる。

 ラジオのゴールデンタイムだけにプレッシャーも感じたが、「あなたのことが好きな人を増やしなさい」というディレクターの前川英之(現ROK社長)の助言が支えとなった。「ティーサージ―」は現在も続く長寿番組となった。

 劇団O.Z.Eは5月、沖縄の施政権返還50年を題材とした公演を予定している。作・演出を真栄平が担う。

 「高校時代、ふりあしびーしたことが今の僕につながった。人を驚かせよう、感動させよう、びっくりさせようという気持ちは今も変わっていない」と真栄平は語る。

 (文中敬称略)
 (編集委員・小那覇安剛)
 (前原高校編は今回でおわり。次回から沖縄工業高校編です)

 

 【前原高校】

 1945年11月 開校。高江洲初等学校校舎で授業を開始
 46年3月 与那城村(現うるま市)西原に移転(現与勝中学校)
 58年6月 具志川市(現うるま市)田場の現在地に移転
 73年3月 春の甲子園に出場。夏の甲子園にも出場(8月)
    5月 若夏国体で女子ソフトボール、男子バレーボールが準優勝
 80年 定時制が閉課程
 96年 夏の甲子園に2度目の出場