サンフランシスコ講和条約交渉期の1951年ごろ、沖縄では「独立」「国連の信託統治」「日本復帰」などと、地位や帰属を巡る議論が白熱した。近現代沖縄史に詳しい波平恒男琉球大名誉教授は「戦後沖縄の初期政党は広い意味での独立志向を特徴としていた」と指摘する。根底には日本の軍国主義によって巻き込まれた沖縄戦の体験があった。
「うるま新報」社長兼編集局長を務めた池宮城秀意氏は51年2月2日付社説などで、琉球処分(併合)以降「沖縄人は日本から植民地的取り扱いを受けてきた」とし、当面の地位として国連の信託統治を主張した。
池宮城氏は沖縄の再建は戦争に参加した諸国の責任で行うべきだとし、「遠き将来において沖縄或いは琉球が独立し得れば独立でもよし、或いは日本に帰属するかアメリカに帰属するかは、その時の情勢によって全人民の意志によって決定すればよい」と論じた。
国連の信託統治は、その地域住民の自己決定権を認めており、独立か日本復帰かを決めることができる。独立すれば外交交渉で基地撤去も要求できるようになる。
波平氏は「国連信託統治が実現していれば、仮に日本に復帰するとしても、施政権返還協定のような頭越しの協定で県が復活するのではなく、小さいながら連合国家か自治州のようなものになっていたのでは。そうすれば、今の沖縄の問題もなかったのではないか」と指摘した。