佐藤首相訪米阻止闘争に参加して逮捕された友寄隆都さんは、警察の厳しい取り調べを受けた。学生運動の鎮圧に躍起だった警察は、友寄さんをデモ隊扇動の行動隊長と見込んでいた。見当違いな厳しい聴取に耐え続けながら、沖縄のことを思い浮かべていた。
高校の校内新聞に「返還は核抜き本土並み、施政権全面返還であらねばならない。返還時までに完了しなければ受け入れるべきではない」と書いたら、教師から待ったが掛かった。「何よりも大事なのは日本に帰ること。順番よく、手順を踏んで解決するのが大事だ」と諭された。
米民政府がパスポートを発行する時代。「先生は、新聞が米軍に見つかれば、東京への大学進学が阻まれるのではないかと案じてくれたのだろう」と思った。復帰運動をリードしていた教職員でさえ、理想を突きつければ復帰そのものが頓挫してしまうのではないかという、暗たんとした空気に覆われていたことも感じ取った。
友寄さんが警察で取り調べを受けている間に、佐藤首相は米国でニクソン大統領と会談し、1972年返還で合意、共同声明を発表した。「核抜き本土並み」を強調するものの、その実は米軍基地を残したままの返還を決定付けるものだった。
佐藤首相訪米阻止闘争で2千人超の逮捕者が出た結果、学生運動は持続困難に陥り、70年安保闘争は終焉(しゅうえん)に向かった。運動にのめり込んでいた友人は「権力、体制との闘争に負けたのではない。自分の無力、弱さに敗北した」と書いた手紙を残し、自ら命を絶った。
長期間の拘束後に釈放され、罪に問われることはなかった。復帰が願った形にならず、友人も失い、友寄さんに残されたのも「無力感、敗北感」だった。その後、71年に東京の会社に就職。72年5月15日は何をしていたのかさえ覚えていない。
会社員として過ごす間は復帰に関する経験を思い返すことは少なかった。しかし、50年の節目を目前に意識が変わった。「あの時は負けたけれど、何か意思表示をしないといけない。現状を容認していると思われたら駄目だ」。広大な米軍基地が残り、理想の復帰が実現しなかった現在、今度こそ、基地のない「沖縄のための戦い」を誓う。
(稲福政俊)