【特別評論】「復帰」歴史認識の変容迫る日米同盟 与那嶺松一郎(編集局政経グループ長)


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与那嶺松一郎政経グループ長

 式典会場後方の出入り口付近に、米国ホワイトハウスからのメッセージボードがうやうやしく飾られていた。

 バイデン大統領のサインを記した文章は「沖縄の返還は、日米関係の1ページが終わりを告げ、新たな関係が始まったことを意味した」と、日米同盟の深化の歴史として沖縄返還からの50年に意義付けを与えている。

 それに続く「民主主義、自由そして法の支配に対する日本の断固とした支援と、このような理念の前進に向けた沖縄の貢献に深く感謝する」との一文は、ロシアのウクライナ侵攻をはじめとする現下の国際情勢を意味するのは間違いない。「沖縄の貢献」とは、一体われわれに何を期待したものなのであろうか。

 式典に出席したエマニュエル大使は、明確にロシアの戦争を持ち出し、「日米両国は侵略を阻止し、平和、安定、法を推進することで防衛を確実なものにしている」と訴えた。県民が平和を希求する日にふさわしくない。大使の使う「平和」の言葉も、県民の概念とは全く相いれない別物だ。

 岸田文雄首相もまた、沖縄返還は「日米両国の友好と信頼により可能となった」と強調した。50年前に佐藤栄作首相が述べた言葉をなぞり、米国との領土交渉の成果として沖縄返還を意義付ける。だが、沖縄から見た歴史は全く違う。

 サンフランシスコ講和条約発効により日本と切り離され、沖縄の人々は無国籍状態に置かれた。県民の多くは「復帰」の名の下に結束し、米軍の圧政にあらがった。屋良朝苗氏をリーダーとする大衆運動はついに米国を動かし、施政権返還の運命を切り開いた。

 凄惨(せいさん)を極めた沖縄戦を体験した県民自らの選択と努力で世界史に残る出来事を刻んだのが復帰であり、その運動の原動力が平和の希求であった。ただ、復帰の内実はやはり国家間の秘密交渉であった。日本政府は米軍の沖縄駐留による日米安保の維持を望み、米国は沖縄住民の不満をそらした上で基地を自由使用するという思惑によって沖縄を“取引”した。基地撤去の県民の願いは一顧だにされなかった。

 そして50年後の今、米国の施政権下を脱したはずの南西諸島は「第一列島線」と名付けられ、米中対立の最前線に組み込まれようとしている。

 日米の軍事パートナーシップを確認する出来事として、国家が「復帰」の歴史認識を変容しようとするならば、私たち県民はあらがわなければならない。沖縄戦体験と同様に復帰もまた、記憶継承の課題として県民自身に問われている。