久米島では1945年6月26日の米軍上陸後、日本海軍通信隊(鹿山隊)による住民の殺害が相次いでいた。米軍と接触した人をスパイと見なし、本人だけでなく周りの家族の命も狙われた。
上陸を前に、米軍の偵察部隊は具志川村(現久米島町)北原区の住民3人を拉致した。島の軍備の情報を聞き出すためだった。抵抗した1人を殺害し、残る2人は同26日に戻した。
鹿山隊は、尋問から戻った2人を含む区長や警防団長、家族ら計9人を殺害し、家に火を放った。鹿山隊は警防団長らに、拉致された2人をスパイだとし「帰って来たら直ちに軍に引き渡すべし」と命じていた。虐殺は、その命に従わなかったためとされる。炎を目にした住民らに衝撃が広がった。見せしめにして恐怖で島民を支配するという日本軍の狙い通りだった。
米軍は上陸後、鹿山隊がいた宇江城城跡付近に向かって進軍した。山の麓で草刈りをしていた当時17歳の山里昌朝さん(94)は4人の米兵に囲まれた。日本兵と間違われて連行され、通訳を介して尋問を受けた。民間人だと説明し、解放された。帰り際、米兵が言った。「車で(家まで)連れて行く」。山里さんは断った。「日本の兵隊があちこちに隠れていて、車で行ったら殺(や)られる。歩いて行く」
集落に戻った山里さんを島民が訪ねてきた。「山の隊長が呼んでいるぞ」。その時、必死に止めたのが叔父の昌睦(しょうぼく)さんだった。「叔父さんが行くのを止めてくれたから助かった。行ったら殺されていた」。叔父の助言が命を救った。
北原区で米軍に拉致され鹿山隊に殺された一人、孫一郎さん(名字不詳、当時16歳ぐらい)は、別の意味で久米島を救った。孫一郎さんは米軍に対し、島には約50人の日本兵しかおらず、島民は抵抗の意思はないことなどを伝えていたことが、後に米軍資料から明らかになっている。孫一郎さんや、本島で捕虜となって米軍に久米島への艦砲射撃をやめるよう進言した仲村渠明勇(なかんだかりめいゆう)さんらによって、久米島は砲火から守られ戦闘の巻き添えによる民間人の死者はほとんどいなかった。しかし、そうした人は日本軍に虐殺された。
戦後、島内では元隊長の鹿山正氏や日本の戦争責任を糾弾する動きもあった一方で、戦時中のことを掘り起こすことに反対意見もあった。軍国主義に絡め取られ、日本軍の恐怖に縛られた記憶は今も島の人々に重くのしかかる。北原区の新垣榮吉さん(89)は沈黙の後、目を潤ませて重い口を開いた。「この人(孫一郎さん)たちのおかげで艦砲もなかった。(米軍の拉致から)戻ってきた時、本当はご苦労さま、と言うべきだった」
(中村万里子)