普天間移設巡り深まる沖縄県と国の対立、仲介断念に複雑な思いつづる 故下河辺氏の手紙


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1998年に下河辺淳氏から大田昌秀知事に宛て、投函されなかった手紙

 普天間飛行場の返還・移設問題を巡り政府と県の対立が深まった1998年8月以降、下河辺淳氏が大田昌秀知事に宛てて書いた手紙の内容が明らかになった。首相との会談を働き掛け続けた背景には、下河辺氏が直前まで橋本龍太郎首相と知事の度重なる会談をお膳立てし、政府の沖縄政策に存在感を示してきた経緯がある。

 国土庁官僚だった下河辺氏は復帰前から沖縄の振興開発計画策定に関わった。95年の米兵による少女乱暴事件以降、大田知事は米軍基地の使用を巡る「代理署名」を拒否し国と対立。下河辺氏は首相の密使として沖縄に出入りし96年に知事と首相の会談を実現した。

 さらに「沖縄問題を解決するために」と題した通称「下河辺メモ」を96年8月にまとめた。メモには橋本内閣が同年9月に閣議決定した「首相談話」に盛り込まれる「沖縄政策協議会」開催、経済対策のための「50億円調整費」導入などの提言が含まれており、談話のたたき台になった。

 98年の県知事選を巡って政府は当初、大田氏の3選を見通して県との信頼関係構築に注力した。一方で辺野古沖の海上ヘリポート案が名護市の住民投票で拒否され、大田知事も県内移設反対を表明したことで橋本首相との対立は深まった。そして県知事選で大田氏を退ける稲嶺恵一氏が98年8月に出馬表明している。

 それらの経緯から、手紙には下河辺氏がこれまで続けてきた仲介役を断念することを決めたことも書かれている。県側から「県民の心を理解してください」と発言があったことを記し、「(仲介が)迷惑なことだと思うと、悲しい思いと同時に深く反省させられざるをえません」と心情を吐露しているが、大田知事に届くことはなかった。

 しかしその内容は政府と県の対立が決定的となったとされる時期にもあきらめず、働き掛けを続けていた事実を明らかにしている。江上能義琉球大学/早稲田大学名誉教授は手紙から「国と県の対立が厳しさを増してからも下河辺氏があきらめずに知事選の直前まで仲介しようとしていたことが分かる」と述べる。

 江上氏は「復帰後、最大の山場となった局面で橋渡し役を務めた下河辺氏が役割を終えた時の経緯と複雑な心境が込められている」と話す。政府と県の対立が決定的となったとされる時期まで仲介の努力が続いていたことに「後世に残す価値のある歴史的な資料だ」と評価した。
 (宮城隆尋)