「私一人が生き残った」弟や友人の死…日本兵から手りゅう弾、奇跡的に一命取り留め<あの日 生かされて>8


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「私一人だけ残った」と涙ながらに語る宮城艶子さん=16日、南城市大里の特別養護老人ホーム「東雲の丘」

 沖縄戦前年の1944年、当時16歳だった宮城艶子さん(94)=南城市=は、通っていた青年学校の仲間と共に、日本軍の壕掘りに何度も動員された。土をもっこに入れて二人一組で担いで運ぶ重労働だった。「南風原村での壕掘りには、いつもキクエとヨシコという友達と一緒に行っていた。土運びは夕方5時まで続き、帰り道では辺りが真っ暗になっていた」

 翌年になると、住んでいた大里村稲福(現南城市)に駐屯していた球(たま)部隊の命令で、宮城さんを含む稲福の女子4人は軍の救護訓練を受け、稲福の製糖場隣の病院壕を手伝うようになる。3月23日、妹の誕生日の朝に米軍の空襲が始まった。確保してあった壕に両親と7人のきょうだいと共に避難した。そこから病院壕に通い、負傷兵の看護をしたり、血の付いた包帯を洗ったりした。

 食事は夜中に姉と一緒に、自分たちの畑まで芋を掘りに行った。夜中でも艦砲射撃が降り注ぐ。帰り道で近くに砲弾が落ちたこともあった。宮城さんが頭に載せていたザルに破片が当たり、ザルは黒く焦げて半分に割れてしまった。

 その後、佐敷村(現南城市)新里と稲福の境にある親戚の壕に移った。病院壕の手伝いは続けていたが、米軍が近づいて来たため病院は解散となった。衛生兵から「包帯などをあげるから明日の朝来なさい」と言われた。しかし病院壕の炊事のため嘉手納から来ていた女性たちから「親たちが遠くに避難する前に早く帰りなさい」と言われた。戦後、彼女たちのような三つ編みの髪の毛や軍服を身に付けた遺骨が稲福で発見された。

 宮城さん一家はその後、本島南部をさまよう。玉城村富里(現南城市)、具志頭村(現八重瀬町)、真壁村(現糸満市)へと移動し、途中の玉城村前川近くでは弟といとこが、真壁村伊敷では大勢の稲福出身者が亡くなった。姉と隠れた伊敷の民家にも砲弾が落ちるなど、幾度も危険な目に遭遇した。

 「どうせ死ぬなら稲福の壕で死にたい」。一家は地元に戻ることを決意したが、帰宅途中にも、ソテツの茂みにいた日本兵から前と後ろに手りゅう弾を投げられた。奇跡的に一命を取り留め、具志頭国民学校の前で米兵に遭遇して保護された。

 一緒に壕掘りに行ったキクエさんとヨシコさんは戦死し、稲福の若者6人も南部で「自決」したという。弟と友人を亡くした宮城さんは「私一人生き残った。みんなかわいい顔をしていたのに。(稲福の)慰霊塔に行っても、(泣いてしまって)名前を読み切れない」と声を詰まらせる。

 戦後77年を経ても昨日のことのように当時を思い出し、涙があふれ出る。今も癒えることのない悲しみを胸に抱いている。
 (金城実倫)
 (おわり)