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戦中戦後の辛苦も糧に「今が幸せ」 琉舞で「幸の時」を体現 介護士・金城多美子さん<県人ネットワーク>


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「今は最高に幸せ」と琉舞に精進する金城多美子さん

 「禍福はあざなえる縄のごとし」という。より合わせた縄の合わせ目は今が幸の時というべきか。金城多美子さん(77)が、あこがれの琉球舞踊を習い始めている。伊江島の出身で現在は関東に住んで22年になる。聞くと沖縄戦では生死の淵に立った。戦後も苦労という不幸の合わせ目は連綿と続いたようだが「ものともせず」の気質が支えた。それでも舞踊への憧れは積年の思い。「今は最高に楽しい」。やっとの思いでたどり着いた幸の時を踊りで体現する。

 振り返ると、まだ生後間もない乳児の時だった。「伊江島から今帰仁へ避難したけど、逃げ惑う中でマラリアにかかって」。共に避難した親類は高熱の症状にある乳児の運命を覚悟するしかない。加えて「母親もマラリアにかかっていたというからね」。

 もはや見捨てるしかないという境地に立ちつつも「祖母がおぶって帰って来てくれた」。奇跡の生還の記憶は「一緒に避難した親類から後になって聞いた」と、自らの強運を語る。

 伊江島に戻ってしばらくすると、生活していた真謝の自宅は米軍に強制接収された。1953年に始まる米軍の立ち退き通告だ。「銃を持った米兵に追い出されて、着の身着のまま。荷物を運ぶからとジープ型の車に乗せられた」。別の土地に設営されたテントに多くの住民が収容された。幸い親類の家に身を寄せることができたが、島の随所で災難はつきまとった。

 「生活費を稼ぐために薬きょう拾いに出た同級生は運悪く不発弾に触れて片腕をなくしてしまった」。そんな記憶も鮮明だ。

 中学を卒業すると県内外で就職を繰り返す中、進学、結婚、子育てと幸の合わせ目は続くが、いつしか裏目となる。借財など経済的な困窮で暗転、昼夜働くことになる。辛苦も捉えようによっては楽しみにもなろう。とはいえ時にはよほどの「鈍感力」を兼ね備えていないとくじけそうになる。

 合わせ目の反転は意外なところから来た。「マラリアのせいかは分からないけどね。実は臭いというのを感じたことがなかったのよ」。味覚はあるが、臭覚はないという。それが転機になるとは思わなかった。

 県内の病院で出くわした人から関東での介護の仕事へ代わりに行ってくれと頼まれた。急にふられた別天地での仕事にちゅうちょもしそうだが、そこが強運と、持ち前の精神のしなやかさなのだろう。即断した。

 介護現場は排せつの世話も大切な仕事だ。「臭いに顔もしかめがちだが、実は神経を使う場面。臭いを感じないから淡々と作業できちゃう。喜ばれてね」。

 人間は生きていればどうなるかは分からない。若い頃、琉舞道場の稽古の様子を「うらやましく見詰めていた」夢をようやくかなえた。「まだまだ習いたい踊りがある。長生きはするもんよ。生きているだけで丸もうけっていうでしょ」。快活に笑い飛ばした。 (斎藤学)

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 きんじょう・たみこ 1944年11月に伊江村で生まれる。小、中学校を卒業して県内外で就職する中、那覇商業高校を卒業すると同時に結婚。3児に恵まれる。2000年に関東で介護士として介護職に携わった。