広河隆一氏の性暴力問題を考える 対話打ち切る加害者 説明責任ない謝罪無意味 小川たまか


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花やプラカードを持って性暴力の根絶を訴えるフラワーデモの参加者ら=10日午後7時、那覇市泉崎の県民

 フォトジャーナリストの広河隆一氏が那覇市内の市民ギャラリーで7月に開催予定だった写真展「私のウクライナ―惨禍の人々」が中止となった。広河氏については2018年に複数の女性から性暴力被害の訴えがあり、その後に設けられた検証委員会の報告書によれば被害者は17人いたという。

 今回の展示にあたって抗議があり、ギャラリー側は「協議した結果、隣接する他の展示室や施設に著しい混乱を来すことが予想されるため」という理由で中止を決定したと報道されている。

 私は今回、展示は行われるべきではなかったと考えているが、それは性暴力加害を告発された人物が公の場に戻るべきではないと考えているからではない。被害者に対しても、社会に対しても、いまだに説明責任が果たされていないことが問題だと考える。そして、性暴力を訴えられた著名な人物が説明責任を果たさないまま、いつの間にか復帰を果たしてしまうケースはこれが初めてのことではない。

小川 たまか

「性的同意」

 広河氏の場合、検証委員会は性被害や多数のハラスメントを認定した。広河氏は一時、取材などに対して女性たちを傷つけた事実を認め自己批判していたが、今年3月にインターネット上で公開した手記の中では「心の中で『不同意』なのにセックスを迫られることを『レイプ』と呼ぶのなら、そう書くべきだと思う」などと報道批判を行った。

 全文を読み、自分のしたことを認めきれていないという印象を受けた。広河氏はおそらく、暴力や脅迫を用いていないのにレイプという表現をするのは行き過ぎだと感じたのだろう。

 2017年の性犯罪刑法改正やmetooの頃を境にして、性暴力に関しての世の中の意識は変わりつつある。重要な変化の一つは「性的同意」の概念が若者を中心に広がりつつあることだ。

 性的なコミュニケーションを求める場合には、アクションを起こす側が相手の同意を確認することが大切という考え方だ。日本では現状「不同意性交等罪」はないため、不同意であっただけでは性犯罪は成立しないが、海外では不同意を基準とする国も既にあり、倫理的には明確な同意を取ることが望ましい。

 一昔前の「嫌よ、嫌よも好きのうち」や「女性は性交渉について主体的に意志を示さない方が良い」といった考え方は過去のものになりつつある。しかしその変化を受け止めきれない人も多い。

 人権派ジャーナリストとして活躍してきた広河氏もまた、この変化を受け止めきれない一人なのかもしれない。

被害者の問い

 私はライターとして性暴力の民事・刑事事件を取材したり、性暴力の被害者支援、加害者の再犯防止プログラムを担う専門家が登壇するシンポジウムを開催したりしている。

 こういった経験を通してたびたび目にする現実がある。被害当事者の声は加害者には届かず、加害者は一方的に対話を打ち切ろうとするのだ。

 多くの場合、被害当事者は、事件がなぜ起こったのか(なぜ自分を狙ったのかや、どうしてそんなことをして良いと思ったのか)の説明と、再発防止のための説明を加害者に求める。よく言われる「ストレスが溜(た)まっていた」とか「酒を飲んでいた」などの理由では、被害者は到底納得できないし、また、今後自分のような思いをする人がいてほしくないと思うからだ。

 けれど大抵の場合、加害者はその問いに答えることをしない(あるいはできない)。謝ればいいんだろうというような態度で「すみませんでした」と繰り返す人もいる。被害者の「なぜ」は純粋な問いなのだが、加害者はそれを自分に対する攻撃だと思っている。説明責任を果たさない謝罪になど意味はないということが、まったく理解されない。

 「なぜ」を問う被害者の姿が報道された場合、ただ怒っているとか、混乱しているとか、あるいは「金目当てなのだろう」と受け取られてしまうこともある。そのような受け止めは、説明責任から逃亡する加害者に加担する。

 広河氏は人権派ジャーナリストとして活躍してきたが、被害者に対して、あるいは自分に対して真摯(しんし)に向き合っているだろうか。このような状況の中での復帰は、彼の仕事を考えればなおさら不誠実だ。これは「表現の自由」というフレームで語る議論ではなく、人権に関しての説明責任の問題だ。性加害は権力勾配を背景に行われた。広河氏の権威を再度示すことになる展示は慎重に検討されるべきだった。

許している世間

 2020年に週刊誌でセクシャルハラスメントを報じられた有名編集者は、会員向け動画で被害者に対して悪態をつき、その後いくつかの仕事を辞したものの、特に説明のないまま復帰している。

 同じく2020年に社員へのわいせつ行為などが報じられた女性向けアパレル大手の社長は、職を辞したもののいまだ公への説明はなく、2021年には紺綬褒章を受章。ウィキペディアにはその輝かしい経歴が並ぶばかりで性的加害に関する記載はない。

 夢や仕事、あるいはそれまでの人間関係を失うこともある被害当事者の現実を目の当たりにしていると、その差に気持ちが沈むばかりだ。

 著名人であれば公に対する説明責任は一般人よりも重いはずだが、それが果たされる様子を見たことがかつてない。まるで不倫報道と同じかのような軽さで、世間は性的加害を許している。いやむしろ、不倫の方が記者の前での説明を求められているではないか。

 性加害行為について説明責任を果たすというのは、大変難しいことであるのは間違いない。けれど社会が前進するために、もう少し被害者側の声が世の中に浸透してほしい。被害者が投げかける「なぜ」を曲解せず、真摯に応える社会であってほしい。
 (ライター)

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 おがわ・たまか 1980年東京生まれ。著書に『告発と呼ばれるものの周辺で』(亜紀書房)、『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を』(タバブックス)、共著に『わたしは黙らない 性暴力をなくす30の視点』(合同出版)。