「軍の論理で犠牲になった人の視点」伝える 一部で反対の声乗り越え保存・公開 陸軍病院南風原壕<戦跡で継ぐ記憶 沖縄・長野で考える㊥>


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病院壕に置いて行かれ、青酸カリを飲まされたことを証言した元負傷兵の岡襄さん。南風原文化センターは証言をビデオやパネルで展示している=南風原町

 「『軍の施設』ゆえに整備や公開に一部住民の反対もあった」。沖縄陸軍病院南風原壕の保存・公開について、南風原町立南風原文化センター元館長の大城和喜さん(73)は、そう振り返る。沖縄戦で当時の村人口の44%が亡くなった。戦争の悲惨さを伝えるため残そうという一方で住民の思いは複雑だった。病院壕を軍や戦争の賛美にしてはならないという警戒感だった。

 そうはさせないと大城さんが大切にしたのは「軍の論理で犠牲になった人の視点」だった。壕の保存を巡り1995年、南風原文化センターは関係者を招いてシンポジウムを開いた。元負傷兵の京都府出身の岡襄(じょう)さん(2016年死去、享年92)は日本軍の南部撤退で置いていかれ、青酸カリを飲まされたことを沖縄で初めて証言した。逃げ出したところ撃たれそうになったとも語った。秘密保持のため、敵の捕虜になってはならないというのが日本軍の論理だった。

 「沖縄県史 各論編6 沖縄戦」によると、1940年に天皇が裁可し軍令として公布された陸軍の「作戦要務令」で、負傷者は敵の捕虜にならないよう処置することが定められた。撤退の際に動けない重傷兵を殺害したのは、この命令に基づくとされる。

 岡さんの証言をきっかけに元軍医なども証言を始めた。2007年、壕の一般公開に合わせて移転開所した南風原文化センターは岡さんらの証言を展示する。館長の平良次子さん(60)は岡さんを気にかけ続けた。証言の後、地元の戦友会からのけ者にされ、孤独になり、嫌がらせも受けた。「いまさら言うな」と言われた、と平良さんに打ち明けたという。「岡さんは何か言われるほど『本当のことが言えない世の中になっているのか』と奮い立ったようだ」と推し量る。

 第32軍司令部壕(32軍壕)をどのような視点で公開・展示するか、議論はこれからだ。県の第32軍司令部壕保存・公開検討委員会は「平和発信・継承検討グループ」で議論し、本年度中に県に提言する。また、戦争の背景と責任を明らかにし、次世代に語り継ごうという市民運動も出てきている。9月、沖縄戦の平和ガイドらが松代大本営壕(長野市)を訪れ、長野と沖縄の市民交流で戦争の記憶の継承を考える。

 軍に虐げられた人々の目線で壕の公開につなげた南風原が32軍壕に与える示唆は大きい。平良さんは「あの戦争で起きたことは消せない事実だ。人の生を断ち切るのが戦争であり、そうさせないため、過去の過ちを伝えていく意味がある」と話す。

(中村万里子)