話し合う子どもたち 宮城利佳子(琉球大学教育学部講師)<未来へいっぽにほ>


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宮城 利佳子(琉球大学教育学部講師)

 こども園の4歳児クラスで、5月にあった出来事である。朝、子どもたちが大事に育てていたカバマダラの幼虫が、きれいな蝶(ちょう)へと羽化した。羽化した蝶は、幼虫と同じようには飼育できない。それを知っている子どもと保育者は、外に逃がしたほうがいいと提案した。しかし一部の子どもたちは、大事に育ててきた愛着のある蝶だからこそ、逃がすことを嫌がった。そこで保育者は、結論を急がず、お昼まで待つことにした。

 昼、子どもたちは改めて話し合った。蝶のことを思い、「空に飛んでいきたいと思う」「お花の蜜を飲みたいはずだから逃がしてあげよう」と主張する子がいた。それに対して、「お花を入れればいい」と必死に反論する子もいた。「お母さんに会いたいはず」「お母さんも入れたらいいさ」と次々に意見が出て、白熱した。

 20分にも及んだの話し合いの末、子どもたちはカバマダラを逃がすことで納得した。全員でベランダに出て、カバマダラを逃がすことにした。虫かごの蓋(ふた)を開けてもなかなか飛び立とうとしないカバマダラをみんなで「頑張れー」と応援し、保育者が葉っぱに乗せて外に出そうとすると、ひらひらと飛んで一人の男の子の指にとまった。その子は子どもたちの中でも一番カバマダラを世話していた子だったので「やっぱり一番世話をしていたのが分かるんだね」と、子どもたちは喜んだ。

 保育者が答えを見つけて子に伝えるのではなく、子どもたちが話し合いによって自ら答えを出したことは民主主義への第一歩である。屁理屈(へりくつ)のようにも聞こえる必死の反論も、他の子の意見をきちんと聞いていることの表れであり、だからこそ大好きな蝶を逃がすことに納得したのだと感じた。