さまざまな命の重み 周本記世(がじゅまる動物クリニック院長)<未来へいっぽにほ>


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周本 記世(がじゅまる動物クリニック院長)

 先日、保育園に末娘を迎えに行った日のこと。娘は大きなカマキリを自慢げに見せ、虫かごに入れて持ち帰ろうとしていた。捕まった時点で弱っているため、翌朝にはいつものように虫かごの中で死んでいるだろう。「みんなに見せたいんだね。じゃあカマキリさんにとって、おうちに帰れるのと、知らない所で夜眠るのは、どっちがうれしいかも考えてみて。連れて帰るか、自分で決めよう」と伝えた。すると娘は少し考えてから、「放してくる!」と山へ走っていった。私と保育士は、生き物へ思いやりの心を見せた娘を笑顔で見つめた。その一方で、血を吸おうと飛び回る蚊をつぶそうとしていた。

 大学生の時、アフリカゾウと地域住民の共生を目指す活動のお手伝いをするため、ケニヤへ渡った。そこでは、イギリスの植民地時代に国立公園が造られたため、生息域が分断されたゾウと、住んでいた場所を追われて公園との境界へ移動せざるを得なかった地域住民との衝突が起きていた。

 地球上の生き物は、決して人間のものではない。しかし地球上のたった一種でしかない人類が法律や国境をつくり、畜産や保護や駆除を行っている現代、動物の命にはどうしても重さの違いが出てしまう。野生動物の中でも、保護の対象や狩猟の対象など全く異なる扱いを受けることもある。

 動物の命は人間よりも短命であることが多いが、決して軽んじてはいけない。駆除する場合は、ごめんね。食する場合は、ありがとう、いただきます。ペットや学校飼育動物に対しては自分のもとに来てくれてありがとう、大好きだよ、という気持ちを持つことが結果は同じであっても最大限の動物への畏敬の念を示し、人間としての精神の成熟にもつながるのではないか。