prime

侮辱罪の強化 批判の自由に抑制始まる 歴史逆転、罪深き法改正<山田健太のメディア時評>


この記事を書いた人 Avatar photo 滝本 匠
「侮辱罪」を厳罰化する刑法改正案を賛成多数で可決した衆院法務委=5月18日午前

刑法改正の一括法案が今国会で成立し、侮辱罪の厳罰化については7月中に施行される見通しだ。本欄昨年12月号で法案や審議の問題点を挙げているが、改めて侮辱罪強化が何をもたらすかについて確認をしておきたい。

 批判の自由

 はじめに、表現の自由が民主主義社会の基盤をなし、批判の自由の拡大の歴史こそが表現の自由の歴史であることを改めて強調しておきたい。戦後、現憲法の制定により、名実ともに表現の自由が保障される時代を迎えた。同時に、刑法の名誉毀損(きそん)罪には、新たな条項が加わる。この免責要件によって、たとえ為政者を批判しても、それが公共性・公益性を有し、真実であることを証明できれば、その自由な批判を保障することが定められた。
 それまでは、天皇、政治家、高級官僚を批判することは罪だった。むしろ事実であれば事実であるほど、その罪は重かったともいえる。しかし戦後は180度異なり、民主主義社会のためには公人を自由に批判できる環境こそが大切であるとされたのだ。その後は判例上でも、批判の自由の範囲は徐々に広げられ、今日に至っている。
 侮辱罪は名誉毀損罪の弟分のような存在だが、事実の適示がない抽象的な表現を幅広く対象にする代わりに、制裁である罪を極力軽くし、バランスをとってきた。これは明治の制定時からの制度設計だ。また、名誉毀損行為を刑事訴追することについては、公権力の行使を謙抑的にすることで、表現の自由への配慮を実現してきた。侮辱罪についても同様で、しかも侮辱の範囲が曖昧であるがゆえに、より恣意(しい)的な権力行使が可能であることを考慮し、慎重な運用がなされてきた結果が、国会審議でも指摘されているように過去の検挙件数が少ないという結果を生んでいる。
 今回の法改正は、そうした制度設計や運用を大きく変更するもので、名誉毀損と大きく変わらないような罰則に強化するにもかかわらず、その定義はあいまいのままで、しかも免責要件を有しないという意味では、三重の過ちを犯している。

 恣意的な判断

 二つ目のポイントは、大衆表現こそ一般市民の大切な表現活動であるとの認識だ。ヤジやデモ・集会、タテカンやポスター・チラシなどは、一般市民が、お金も手間もかけることなく、メディアを持っていてなくても、気軽に行使可能な表現形態であり、原始的(プリミティブ)表現とも呼ばれてきた。
 この表現行為の特徴は、ショートメッセージであることが多く、また感情的な表現になる場合も多い。その結果、時には言葉が激しくなったり、汚い言葉になったりもする。会社をクビになった元雇用者が、社長に抗議する場面などが当たるだろう。政府や政治家に対する抗議活動も同じだ。
 そうした激しい表現活動が、特別な感情を社会に植え付けている側面を否定できない。いわば、デモ・ヤジ・チラシへの偏見だ。一般社会から逸脱した人の行為である、負け犬の遠吠えだ、金で動く人たちでプロ市民ではないか、一部過激派の運動にすぎない、などだ。郵便ポストへの投げ込みも、ピザの宣伝チラシはよくても、実際に政党活動報告を投入した人が捕まり、有罪になった事例もある。こうした運用上の差異を生むのは、取り締まる側すなわち行政の恣意的な判断ということになる。
 新聞やテレビを直接制約するのは好ましくないけど、面倒くさくてうるさい大衆表現は多少厳しめに制限しても構わない、という意識が世間一般にないだろうか。侮辱罪の適用対象は多くの場合、こうした大衆表現となる。政府内の検討会議段階でも、侮辱的表現は「低位な表現」で保護する必要性が低いとの発言があり、それが会議の空気を支配していた。表現の自由は必ず周縁から制限が始まる。いわば、社会の空気感で多くの人が気にしないところからということだ。まさに、侮辱表現であることを理由に、大衆表現が、恣意的に刑事罰の対象として取り締まられることは、表現規制の典型例でもあり、批判の自由の制限の始まりである。

 心の叫びを守る

 侮辱は低位とのラベリングがなぜ危険かといえば、だれがどういう状況で行う言動かを考えると想像がつく。強者から弱者への侮辱的言動は許しがたいものがある。その一つの例が、ネット上のマジョリティーの側から発せられるマイノリティーへの人格否定や罵詈雑言(ばりぞうごん)だ。実際は、情報発信者自身も社会の強者とは必ずしも言えない場合も少なくないが、匿名という殻に守られることで強者の立場に立てるという構図が生まれている。
 一方で、弱者から強者の典型が、一般市民から政治家へ、労働者から使用者へ、マイノリティーからマジョリティーへ、といったかたちであらわれよう。それらは往々にして、言葉が多少汚くなることも、強い表現になることもあるだろう。しかしそれらの多くは、勇気を振り絞り、やっとの思いで口にした、いわば心の叫びとでもいうべき、必死の抵抗でもあるわけだ。その場合、強者は反省のきっかけにこそすれ、それを力で封じ込めることがあってはなるまい。
 それを考えた場合、両者にもし同じルールを当てはめるならば、後者の心の叫びが罰せられないようにすることが大切なことはいうまでもない。これまで、罪をあえて重くしてこなかった理由に、私たちは思いをはせる必要がある。こうした少数者の意見が出やすくすること、強者に対しても物言いがしやすい環境を用意しておくことが、民主主義社会の懐の深さだからだ。
 強者への物言いを守る方法が、先にも触れた免責要件とよばれている制度上の工夫だ。表現の自由の限界壁を自由拡大の方向にずらすことで、批判の自由を保障してきた。それからすると、今回の侮辱罪の強化は、適用対象を変えていないということで限界に変更はないという政府説明があるが、法案提案理由にあるとおり抑止効果を期待しているわけだから、まさに限界壁を引き下げる効果を生むことになる。これは、社会に一層の萎縮を生み批判の自由を抑制するものに他ならない。
 侮辱罪を厳罰化することは、それ自体に大きな問題を孕(はら)む。と同時に、これまで一貫して名誉毀損法体系は批判の自由を拡大する方向で工夫と経験値が積み重ねられてきた、その歴史の流れを逆転させるという意味で、極めて罪深い法改正である。
 (専修大学教授・言論法)


 本連載の過去記事は本紙ウェブサイトや『愚かな風』『見張塔からずっと』(いずれも田畑書店)で読めます。