8月に入り、広島と福島を巡ってきた。その共通のテーマは言うまでもなく核・原子力政策で、核兵器保有についても原発再稼働についても一気に前のめりになりつつあるなか、広島選出の岸田文雄首相の「次」が問われている。世界全体が、理想よりも現実を一層重視する兆候が強まるなかで、だからこそ日本が、米国追従から脱し独自性を発揮するチャンスでもあろう。こうした国家政策のありようとともに、この1週間で最も強く考えさせられたのが、国と住民の関係性だった。
沖縄の慰霊の日・追悼式もそうした傾向が近年見られるが、広島の平和記念式典は今年、市民を「排除」する形での実施となった。以前は普通に市民も参加できたが、そのうち周辺に追い出される形になったものの、列席会場のすぐ脇まで入れて一緒に参加した気分になれたし、平和公園内にはテレビモニターとスピーカーが設置され、公園内で市民と一体となって式典が挙行される雰囲気があった。終わればすぐに会場も開放され、市が用意した献花もできた。
居心地の悪さ
しかし今年は厳重警備のためか、会場のアナウンスが聞こえないくらい離れたところに警戒線が引かれ、市民はもっぱら監視対象だった。もちろん、モニター等の設置もなく、市民不在の政治セレモニーとして行われたという印象を持たざるを得ない。これが現在の、国と市民=住民の関係を象徴的に現す光景ではないか。
同様な感覚は福島でもあった。福島第1原発を囲うように中間貯蔵施設が設置され、環境省のもとで管理・運営がなされている。福島県内の除染土が運び込まれ、まさに工場さながら一定の処置を施した上での大規模埋設工事が進む。近年で言えば、陸前高田市でのかさ上げ工事の際の壮大なベルトコンベアーによる土砂の運搬作業が行われたが、似たような光景がある。今回が2度目の訪問だったが、施設は格段に整備され中間施設の恒常化が進んでいるとの見方を否定できない。
管理区域内の土地の買収も進み、見学コース内には原発が見下ろせる展望スペースなどが新設され、埋め立てられる大熊や双葉を紹介するパネル等も増えるなど、見学者用「サービス」は充実した感がある。しかしどうしても、国家政策遂行のために過去=住民の生活を意図的に切り離し、この土地の歴史や文化、誰がどのように過ごしていたかを覆い隠しているような居心地の悪さを拭えない。
条例が「不要」に
その広島や福島を含め、全国約1500の地方自治体で一斉に同種の条例改正が進んでいる。2021年5月にデジタル関連法が成立、その関係で個人情報保護法が国レベルだけでなく、地方自治まで広くカバーする体系に変わったことから、極論すれば条例が「不要」な状態になったからだ。それによって、多くの自治体は業務が軽減されるというが、それは住民の個人情報保護がおろそかになることと同義でもある。日本では情報公開制度や個人情報保護制度は、住民運動などが出発点となり、地方自治体が先駆的に制度構築をし、それに倣って法律が出来上がった経緯がある。
さらにいえば、国の個人情報保護法制度は1980年代の第1世代(旧旧・行政機関個人情報保護法)から一貫して「利活用」が目的で、そのために情報を保有する機関・団体に最低限の保護義務を負わせる仕組みだ。その後も、2000年代の第2世代(旧・個情法・行個法)、10年代の第3世代(同改正法=ビッグデータ活用法)、そして20年代の第4世代(新法=包括的個人情報利活用法)と、よりその性格を明確にしてきている。
その結果、住民のための保護措置をとってきた自治体行政との齟齬(そご)は広がってきたわけだ。そこで、自治体から保護業務をひっぺがすことで、これまでの矛盾を一気に解消することを実現したものである。題目としては、一元化と標準化が謳(うた)われ、自治体の勝手は(工夫も努力も)原則許さず、国のルールに一本化することで、より容易に個人情報のビッグデータ利用を進め、国家戦略としてのデータビジネス推進を実現しようということになる。
センシティブ情報の収集禁止を規定してはいけないとか、匿名加工情報の提供をしなくてはいけないなど、国のお節介さが目立つが、最も大きな変更は、個々の自治体が設置し行政監視の役割を担ってきた、外部委員による審議会の業務を厳しく限定化したことだろう。もともと、三権分立によるチェック&バランスを企図してきた国家制度であるが、21世紀に入り日本でも、住民の目による行政監視を実効化してきた。しかし今後は、個別の案件については審議の対象としてはいけないなど制限することで、住民の個人情報をより自由に目的外利用したり外部提供することができるようになると推定される。
市民の視点で
さらにいえば、国にとって最も厄介なのは、市民一人ひとりが権利を主張するような社会だ。それ故に日本では、プライバシー権としての自己情報コントロール権も忘れられる権利も、権利保障される可能性は今後も低かろう。むしろ、現在認められてきた公的情報公開へのアクセス権さえ、ここ15年はよく知られる「のり弁」状態の開示など、空洞化が甚だしい。
そうした中での法改正に基づく条例の改定作業が何をもたらすかは心配だ。国の制度が利活用目的の一方で、自治体の個人情報保護条例は住民本位で、まさに住民の個人情報を守るための制度であったからだ。こうした目的のベクトルが逆だった制度を、国に合わせることは、政府にとって都合が良いかもしれないが、その犠牲になるのは住民であり、そのために働いてきた各地方自治体(の職員)であろう。
沖縄の地では、辺野古新基地建設に限らず、米軍基地をめぐるさまざまな問題において、住民の生活を顧みない中央都合の国家政策に翻弄(ほんろう)され迷惑を被(こうむ)り続けてきたわけであるが、この住民と国の関係性をことあるごとに問い続け、変えていく必要がある。個人情報保護制度もそうだし、式典のありようひとつにも当てはまる。ただし基地も原発も、当該自治体の問題ではなく国の問題であることは明らかで、それは個人情報にも当てはまる。だからこそ、「沖縄に我慢してもらおう」「福島は可哀想(かわいそう)」ではなく、そこに住む市民の視点で根本の国の姿勢を変えさせることが大切だ。
(専修大学教授・言論法)
本連載の過去記事は本紙ウェブサイトや『愚かな風』『見張塔からずっと』(いずれも田畑書店)で読めます。