前向きに人支えた 照喜名朝一さんを悼む 玉城秀子・琉球舞踊家、玉城流二代目家元


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玉城秀子家元二代目襲名40周年記念公演で握手を交わす照喜名朝一さんと秀子さん=2014年12月

 照喜名先生は人が好きで、目上も目下も関係なくどなたにも親しくしてくださる方だった。初代玉城盛義の時代から、宮里春行先生の紹介で、地謡をしていただき、ずっと一緒に舞台を務めてきた。踊り手と呼吸を合わせるのが巧みで、とても踊りやすかった。

 私が玉城流二代目家元を襲名した1975年、それまで痛めていた足の手術をした。77年に開催した舞台で「伊野波節」を踊ったとき、照喜名先生が地謡だった。手術をするまで、曲げることができなかった私の足をずっと気にしてらしたのだろう。「見欲しやばかり」の、座って見上げる振りを踊り終えたとき、客席がどよめくと、先生も声を詰まらせて歌っていた。

 「玉扇の舞」をはじめ、多くの作品で作詞や作曲をしてもらった。こちらのイメージを伝えると、妥協せずに要望通りに作っていただけた。玉扇の舞を作詞してもらったときは、夜中の2時、3時まで付き合ってくれた。いつも前向きで、親身になって苦しい時期を支えてくださった。

 古典や村芝居の地謡をはじめ、洋楽にも対応できる、芸の幅が広い方だった。本当に偉大な先生で、偉大すぎて、受け継ぐのは容易ではないと思う。先生は「芸能を世界に広げる」ことを常に考えていた。若い人たちは古典を大切に守りながら、新しいものにも挑戦し、先生の遺志を継いでいってほしい。大きな財産を失った。

(琉球舞踊家、玉城流二代目家元、談)